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島流しの日々 前編

1984年9月に突如としてぶち上がったとある離島への移住話。
しかし、弱冠14歳の少年にそれを押しとどめる力があろうはずもなく、実父もなすすべがなかった。
それもそのはずで実母は奔放で身勝手、はっきり言うが母親にはなってはいけなかった人物だったと書いておく。
そもそも子供の言うことなど聞く耳を持たなかったので、筆者ら兄弟はただただ振り回されるばかりであった。

離島へ

かくして1984年9月17日頃、一家は父を残して件の離島に渡った。
当時の人口1万人ほど、島へは1日1便の大型船と若干の高速船などが島への交通手段だった。
クルマのない一家ではバスが唯一といってよい移動手段だった。
なお、現在では人口8,000人程まで激減しており、謗法の恐るべき因果は厳然と顕れたというべきである。

当初はメインの港から南へ30分あまり、有名な漁港から若干離れた集落の平地の家に入居した。
それから一か月ほどはいたって平和であったが、それはこの島があたかも地上の楽園であるかのように見せかけ、移住に疑いを持たせないために集ストの手を一旦休めていたまでの話であって、「嵐の前の静けさ」であるというべきであった。

この移住自体、実父と対立状態にあったブルジョア家の策謀であり、筆者に対するガスライティングをやりやすくするためでもあったのである。

再び攻撃の標的に

移住から1か月ほどで件の漁港にほど近い家に移動することになった。
そして少し過ぎたくらいから状況が一気に悪化する。
ここでも生まれた地で受けたのと同じ、行動や言動を操作することによる印象操作によるレッテル貼りをやられた訳である。
大都会の真ん中も同然だった都区部と状況の全く異なるいわば絶海の孤島である。
そこでこれをやられることは、直ちに孤立化を意味するものであった。
周囲の者までが敵対化に向かい筆者を標的にしたということである。
もっぱらマインドコントロールによるものと思われていたが、それだけでは説明が付かず、創価学会が裏で手を回していたものであるということである。

孤立化は云うまでもなくガスライティングの一要諦である。
島流し以前にも同様の集中攻撃があったわけであるが、同様に創価学会が手を回した一種の集団ストーカー、ガスライティングであったのだ。
そしてこの離島でも同様のガスライティングが始まったのである。
このガスライティングには、同級生のみならず下級生、当地の商店主や小学生までもが参加している。
なぜ逃げ出そうとしなかったのかわからないが、おそらくマインドコントロールの影響下にあったためにそのような思考は妨げられたこと、更に母親が聞く耳を持たなかったために諦めざるを得なかった状況などがあった。
呼んでもいないのに敵対メンバーが上がり込んでくるようになり、そこで様々な嫌がらせを受けることもしばしばであった。
まさしく地獄のような日々が来る日も来る日も繰り返されていった。
当然当時はガスライティングや集スト・テクノロジー犯罪のことなど知らなかったしまさか創価学会がそういうことをしていたとも思わなかった。

この時住んでいた家は、かなり古い年代物の貸家で、セキュリティなど有って無いようなものだった。
2階に8畳間が2つあって、そのうちの道路側が私の部屋だったことも被害を大きくしている。
このため目の前の道路から石が飛んでくる(敵対メンバーが投げている)ということもしばしばであった。
しかも本来有るべきこの二間の間の襖が何故か消失しており、カーテンがあるのみという状態であった。
妹が2階奥、弟が1階の一間を占有していた。
この頃は、一家の中で私だけが標的となっていた。

出始めていた害毒

実母は家に男を呼ぶようになっていた。
そして、その頃から男癖の悪さを露呈するようになってゆく。
まさしく創価学会の害毒そのものである。

当然島の外には出れないので、学会活動も島の中であった。
但し、座談会に出る程度ではあったが。
そもそも学会に入ったのではなく【入れられた】のであり、筆者の意向などでは全く無かった。
そもそも、【創価学会は日蓮正宗を外護する団体】であると教えられており、学会が日蓮正宗の、日蓮大聖人の仏法を行ずる団体であると信じて疑わなかった。

だから、まさか創価学会が原因であるとは夢にも思わなかったのだ。
ただ、勤行等は時折り程度しか出来なかった。
母親に至っては、全くといっていいほどやっていなかった。
つまり、この時点で創価学会はまともな宗教団体などではなく、利権団体、圧力団体の様相を呈していたということである。
こんな状態で父が入信などするはずもないのは、いわば当然だったのである。
父は、この時既に創価学会の本性というものを見抜いていたということであり、至ってまっとうな考え方を持っていたということでもある。

時は流れて

島に流されたとき筆者は中学二年生だった。
やがて時は流れ、筆者は高校受験の時を迎える。
その実母はすぐ目の前の高校の海洋科に行ってほしいようだったが、筆者はそれだけは断固突っぱねた。
それは、何科であろうと同じである。
高校に行っても同じ面子と顔を合わせるのは絶対に嫌だったからである。
島の外に出ることは、実母が許さなかった。

筆者は、港に近いほうの高校の全日制普通科に志願し、受験した。
どれほどの成績であったかはわからないが、無事合格することができた。
1986年3月、自宅に程近かった中学校で卒業。
同じ学校に進学する者のほうが少なく、これで多くの面子とはお別れとなった。

しかし、その先には新たな試練と更なる人格破壊策謀が待っていたのである。