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復員、そして苦悩の日々へ

復員

1989年3月12日、筆者の一家は四年半にも及んだ島流しに終止符が打たれ、本土への復員を果たした。
この日より、筆者は再び東京の人となった。
しかし、筆者のもとを訪れる旧知の者は無かった。
「友だち」役の三人の男のうちの一人(一番のキーマン)を除いては。
普通であれば、この時点で異変に気付くはずであったのだが、敵のマインドコントロールによって阻まれたのである。

中学時代の(虚偽)交際相手は、既に行方が知れなかった。
同じ部活動をしていた他の先輩でも把握できておらず、当初からキナ臭かったのである。
恐らく筆者の帰還を聞きつけて遁走したのではないだろうか。
やましいことが無ければそんなことはしないであろう。
いずれにしても、中学時代の交際は虚偽交際事件であったのだ。
後の当家では、虚偽交際事件と断定したため2013年8月10日を一期としてこの元女子生徒を破門に付している。

徹底した引き裂き

島流しの日々において、敵は徹底して内外に亘る印象操作と根回しを行い筆者に対する孤立化を徹底して行った。
そして、多くの者は印象操作にヒッカカッて敵に回っていったという経緯がある。
島人でも印象操作に引っかからない者は引っかからなかった。
その様な人間に対しては容赦ない引き裂き工作を行ったのだった。
筆者が心の中で引っかかっていたのは一学年下の女子のことだ。
筆者が高校で二年に進級するとき、(元)妹を通じて「同じ高校に通う」という挨拶があったのであるが、その女子が学校に来ることは無かった。
進学先を変更させられたか、或いは消されたのか。
とにかく都合の悪い者には悉く会わせないようにしたのが敵のやり口だった。
かくして、復員後においてもほとんどの者は筆者から遠ざかり、二度と訪ねてくることは無かった。
それは、渦中の女子生徒にしても同じだった。
その女子生徒は、短大に進み、短大を出ると証券会社に就職していた。

職業の動向

筆者は、とある運送会社の人となっていた。
筆者は、この運送会社の寮住まいとなる。
当初は、本社すぐの独身寮(個室)であったが、後に配属が決まると、東京南部・京浜工業地帯にあるトラックターミナル内の寮に共同生活をする事となっていた。
しかし、この時一家のキャスティングボードを握っていたのは一家の誰でもなく、池田教広宣部のテクノロジー犯罪部隊と、学会組織そのものであったのだ。
この目に見えぬ強大な敵は、筆者をそのまま安定的に就業させるつもりなど毛頭なかったのだ。
このことは、その後の職業的迷走がこれを証明している。
とはいえ、この職場は筆者の性質に見合うものではなかった。
従って、半年と持たずに退職を余儀なくされたのである。

筆者は、退職後実家に戻り、父の家業を手伝うようになった。
しかし、一家の事情から1990年8月に引越し業者のアルバイトとして働き(出稼ぎ)に出る事となり、次いで同年11月から宅配便のアルバイトとして働いた。
これでは再び大学に行くための勉強をすることなどできるはずもなかったのである。

これは、筆者に大切なことを考えさせる暇を与えず、人生の為の勉強もさせず、徒に目先のカネや楽しみなどに執着させ、安易に今が楽しければイイ的な、目先の欲楽だけを追い求める生き方に引きずり込む為の策謀であった。
自らの礎を築く為の苦労から逃れさせ、人間として分別の無い、しかも後に必ず苦しみと後悔を伴う生き方をさせるように、敵は予め暗黒のレールを引いていたのである。

かくして、一家は再び苦悩の日々に陥ることとなった。
敵の人格破壊工作によって次第におかしくなり(といっても、既におかしかったのだが)、私だけがいわば半狂乱状態であったのである。

兄弟の一番下は、まだ小学生であった。
父にその面倒を見る余力があろうはずも無く、元妹も全くそれをやろうとはしなかった。
程なくして、一番下は施設に預けられる事となったのである。
しばらくは会うことが出来たが、後に役所が会わせなくなったのである。
これは離間工作であり、引き離し、一家離散の策動である。
恐らく敵一味が手を回したであろうことは、想像に難くない。

宗教団体の動向

そうした中、筆者の知らないところでは池田創価学会が1990年11月16日の衛星放送で池田大作が当時在職中だった法華講総講頭にあるまじきスピーチで邪教化への口火を切っていたのだった。
池田はこの年の年末に総講頭の資格を喪失することとなり、年が変わると学会は宗門誹謗の大キャンペーンに打って出たのであった。
なお、平成に入るころから「狂乱財務」と呼ばれるところの、学会への巨額の寄付を会員に強いるということが行われるようになっており、それもやはり邪教化への布石だったのである。
結局創価学会は67世日顕上人によって破門され、内側からの誑惑を辛くも免れている。

創価学会は、池田大作によって乗っ取られ、闇勢力の思う通りの、日蓮正宗を攻撃し徹底的に妨害する団体に変わり果ててしまったのであった。

変質させられてしまった人生

筆者は、ただ目の前の生活に追われる有様であったのだが、これもすべて敵の思うが儘であったのである。
4年半にも及ぶ島流しの日々は、筆者のみならず一家全員の人生を無慈悲なまでに変質させてしまっていた。
高校で軋轢の鍵を握っていた女子生徒は、復員後筆者のもとを訪ねてくることは無かった。
その時点でおかしいと気付くべきであったが、そこを誤魔化していたのが高校の同級生であった。
「友だち」役のキーマンの男は、徒に筆者のことをその女子生徒に絡んで揺さぶりをかけながら、女子生徒のことを忘れさせないように仕向けていったのである。

90年秋に入った宅配のアルバイトは、当初臨時の人員としてであったが、年が変わってもそのまま残ることとなり、現場に定着することとなった。
しかし、この事が後の人生の苦悩を決定付けることともなってしまったのである。
そして、目先の欲楽だけを追い求めるような、将来のビジョンも無い、敵の思い通りにカネをはたくだけの人生に貶められてしまったのである。
将来を見据えるような行動は、敵の操作によってことごとく破壊され、ただカネを使わされるだけになってしまった。

91年3月、実父の意向により自動車が導入され、さしあたって筆者が乗ることとなった。
この自動車までもが、敵の工作のためにいいように用いられることとなった訳である。
その後、筆者は練馬区内で一人暮らしをするようになった。
だが、いいことは何もないままであった。
それは、果てしなき堕落への序章となったのである。

宅配の仕事で筆者が担当したエリアに、偶然にも渦中の女子生徒が暮らしていた寮があった。
寮母の人に話を聞くことが出来た。
多分、宅配の仕事になってそんなに経っていない頃のことである。
女子生徒はアメリカにも行っていたようである。
この時、女子生徒は既に卒業した後であったと思われる。
結局、この場所で会うことは無かった。
なお、この寮は現在柏市内に移転している。
短大は、目白にあった。
それは、今は天王台(常磐線)にある。
筆者の草庵から見て、目と鼻の先のような場所である。

その後、専門学校に進んでいた「友だち」役の男は、とある臨海鉄道に就職している。
運転職ではなく、システム関連のほうであったが。
筆者がその臨鉄を撮らなかったのには、そうした事情もある訳である。

堕落した、否、堕落させられた人生へと当時から走らされていたのは、クラスの中でも筆者だけであろう。
そして、それは、そうなるように、格差を目にわかる形ではっきりと見せつけて劣等感を煽り立てるように敵によって仕組まれたものである。
この点においては、他のターゲットに対しても、ある程度の規模の中で一人だけ、となる様に仕向けられ孤立させられているものと推定される。

こうした状況で時は1992年へと進んでいく。
その先には、筆者を揺るがす一大工作が待っていたのである。