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石之坊時代・中期

これまで書いてきたとおり、敵宗門の画策による、はじめの二年間に於ける悪辣な誘導と二大スキャンダルは私の生活に大きな影を落とした。
だが最初のうちはそうとは気づかずにまんまとはめられていた。
門外漢女ら石之坊サイドの誘導はそれほどまでに巧みで隙が無かったのだ。
そして、裏部隊による電磁波攻撃や頭を押さえられていたことは解らないままであった。
無理も無い、電磁波攻撃のデの字も知らなかったのだから。

自動二輪計画圧殺(の演出)と電磁波攻撃の影響で腑抜けのようになっていたのでこれ以降の一部の記憶が定かでない部分がところどころにあるのだが、確か2005年5月以降しばらく参詣を取り止めていたように思う。
なるほど当時撮った写真を見るとところどころに粗があったり、くすんだような写真になったりしたものがかなりの数、見受けられる。
やはり腑抜けになっていたのだなと。
気合を入れて撮ったはずの写真でさえ今見ると粗が目立つ有様だ。

この頃、派遣を辞めるチャンスがあったが、敵一味の陰謀によって潰され、派遣元が提示した大手運送会社の集配拠点での仕事に回ることになった。
しかし、三ヶ月の間に何度も現場を移動させられた挙句、当ウェブで「SG」と呼んでいる工作員のいる現場へと誘導される事となった。

この時の一連の動きは、敵一味の企みによって、系列のカルト構成員が手を回したものである。
この当時派遣された現場は、いずれもバイク通勤できない非正規の現場であった。
そこに筆者を縛り付けておくことは、敵一味の堅固な意向だったのだ。

そんなある日、遂に門外漢女の所業に気づき、御講の時に問い詰めてやろうと思い立った。
かくして公開で奴を問い詰めることとなり、これには新講頭、副講頭や住職も同席していた。
にもかかわらず奴の巧妙な言い逃れと論理のすり替えに遭って惨敗を喫してしまった。
門外漢女には狡猾なやり方と悪知恵が身に付いており、当時の私に勝てる力は無かった。
況して、敵一味に遠隔洗脳装置で頭を押さえられていたので惨敗は必然だったのだ。
この惨敗が無かったら今の暮らしももっとマシなものになっていたに違いない。

しかも、この日を境に洗脳を更に強化され、派遣の現場と公共交通に縛り付けられることになる。

年が明けて2006年、参詣のペースは落ちたままであった。
腑抜けにされてまともに力が入るわけが無い。
当然、仕事でもトラブル続き。
でも生活はしていかねばならない。
まるで地獄のような日々だった。

そんなある日、北茨城で写真を撮っていたところ問題の多かった安レンズが三脚(これまた安物)の転倒で破損してしまった。
週末の撮影を控え紛糾したが、首尾よく代わりのレンズを見つけてくることが出来て活動は継続した。
このレンズはカメラメーカーの純正レンズであった。
今にしてみれば災い転じて何とやらで、門外漢女によってもたらされた最悪の撮影環境を脱する端緒となったのであった。
するとそれまで悪かった歩留まりが、標準ズームの新調も相俟ってみるみるうちに改善したのだ。

その後息を吹き返した私は撮影機材のハイグレード化を決意し、この年の6月2日にはじめての白レンズを手に入れたのであった。
当然歩留まりは更に改善し、吐き出す絵もまるで見違えるようになったことを今でもよく覚えている。
しかしながら、このことが山崎ら石之坊サイドそして首謀者であろう宗務院役僧どもの逆鱗に触れたのかもしれないと今にしてみれば思えるものだ。
この頃を境に、再び門外漢女とは疎遠になり参詣も激減した。
ある意味当然の成り行きである。
斯くして2006年4月以降の参詣は、9月の一回のみということになった。
なお、過去の著作ではこの9月の参詣が見落とされており、後に写真アーカイブを検索した際に明らかになっているが、敵の脚色に都合が悪いため記憶が操作されたものであると云える。

この頃を境に、石之坊サイドの謀略は一旦鳴りを潜める。
最終的に筆者が惨敗したとはいえ、向こうも筆者の激しい突き上げにその場限りで誤魔化すのが精一杯で、更に疎遠になったことでけしかけることも出来ない。
更に、公開で問い詰められたことで、門外漢女は住職らにも一時信用されなくなっていたのであろうと推測される。
そのため、石之坊サイドとしてもそのままでは謀略の遂行が難しくなり、一旦体勢を立て直すことにしたというのが専らの推定である。
息を潜めていた裏で石之坊サイドは、筆者が来ないのをいいことに派閥形成と囲い込みに躍起になっていたのだろう。なお、この派閥形成はあくまでも上からの命令によるものであって謀略の遂行再開に備えてのものであり、門外漢女の独断などでは決してないことには注意が必要である。そもそも門外漢女の独断じたい、トップダウンの鉄則に照らして絶対にあり得ない妄説である。ところが、この妄説を他ならない敵一味が、矛先を逃れるために汚い洗脳でねじ込んでいるのだ。これについては時系列に従って説明する。

写真活動のほうは白レンズを擁して次々に成果を挙げ、連戦連勝の様相であった。
そうして2006年が終わり、転機の年である2007年に入ってゆくのだった。

予定外機材売却強要事件

こうした情勢で突入した2007年、突如思い起こしたかのような形で敵一味は私に参詣を再開させた。
それは、石之坊サイドの態勢立て直しが完了したことを意味するものであったが、その事は知る由もなかった。

こうした状況であったこの年の5月、第一次機材破壊策動と続いて受付恫喝事件が惹起した。
これは、単に坊の規模にとどまらない大規模かつ大掛かりな謀略事件であり、敵一味総出で行われたハラスメント事件である。

2007年春頃になると、デジタル一眼スキャンダルによる産物である、初期導入のカメラ本体に起因するさまざまな問題点が顕在化し、特にフォーカスモードがAIフォーカスに固定されておりこれに起因するAF迷走が問題視されていた。
このため、カメラ本体の代替が検討されることとなる。
敵一味は、これに目を付けたのであった。

この頃、先ずカメラ本体を代替することを決定し、機種を検討した結果、同じメーカーの上位機種を中古で導入することになる。
この機種は、デジタル一眼導入時にも検討されていたものであった。
なお、この時点ではレンズの代替は想定になく、継続使用の予定だった。
2007年4月、EOS 10Dをレンタルで1日使用した。
その快適性、そしてファインダーの見えの違いは歴然で、特にファインダーなどはKiss Dとは瓦礫と如意宝珠ほどの違いがあった。
結果、Kiss Dを売却して10Dを入れることにした。
そして5月に入り、カメラの代替が実施されることになった。
この時点で、レンズの代替は予定に無かった。
折角懸命の努力で改善してきた機材だ。売ってももったいないだけだろう。

しかし、この代替は敵一味の意向に真っ向から逆らうものだった故、謀略がここで仕組まれた。
Kiss DとEF-S18-55は、売却することが決まっていた。
後者は、10Dでは使えなかったレンズだった。
しかし、残る2本、EF70-200/4L USMとEF28-105mmIIは引き続き使うことが出来た。
しかも10Dの代金は既に確保していたので、売却する機材の売却益をそのままにして、2本のレンズをそのまま使えば、何の問題も無かった。
それでは敵一味が謀略を仕組めないため、ここで無用のカネを使わせることにしたのだ。

行った先は、このときはじめて行く事になるカメラ店だった。
ショーケースに、生産終了の新品レンズがあった。
シグマの70-200/2.8 EX DG HSMである。

ここで、電磁波による操作が入る。

仕掛けはこうだ。
1.ショーケースにあるレンズに目を向けさせる。
2.売る予定の無かった品物も査定に掛けさせる。
3.門外漢女やY.T(SG関連で、某束関連会社の女)らと抱えていた問題を焚きつけ、感情操作で憤激の感情を刷り込み煽り立てる。
4.全部売却させ、ショーケースのレンズを買わせる。
5.謀略完成。ワッハッハ。

まさしく、筒抜けでなければ出来ない芸当ではないか。
リアルタイムでモニターしながら遠隔洗脳で操作し行動を狂わせる。
そして、それが出来るのはテクノロジー犯罪以外にありえないのである。

更に問題が降りかかる。
購入した10Dがシャッターボタンの不具合で返品となり、代替品を確保したが、程度の大きな違いにより7000円ほど高くなってしまったのだ。
これとて、先のレンズの不必要な売却と購入がなければ何でもない金額だ。
しかし、これが決定打となってしまったのだ。
これによって、敵石之坊が謀略を惹き起こす下地が出来上がったのであった。

しかして、この事件も次なる大事件の布石に過ぎなかったのだ。
また、しばらく鳴りを潜めていた石之坊サイド、そして敵一味・宗創医連合軍が謀略への体制を固めた事を知らせる「名刺代わり」の事件だったのである。

では機材がどうなったかというと、そのレンズは僅か2ヶ月で筆者のもとを離れた。
本体が入れ替わった後、AFにずれが発生し、ピント合わせに不便を生じた上、これまでのレンズより500g以上重く軽快さを欠いたためである。
その前、6月末には標準ズームを改めて購入。
7月中旬、70-200/4L USMの2代目が入り、旧に復している。
しかし、そのカネは本来費やす必要のなかったカネであり、事件がなければ継続使用でき、仮に後の恐喝事件があったとしても歩かされる事態にはならなかっただろう。何故ならバス代は350~400円に過ぎないからである。
それに、その後に余計に支出する必要はなかったはずである。

この事件を、予定外機材売却強要事件という。

この手口は、その後何度となく繰り返されることになる。

恐喝事件の惹起

そんな中、支部総登山があり、ほぼ強制的に参詣させられることとなった。
ここで恐喝という重篤な事件が起きた。
これは帰りのバス代として残していた金銭を受付の吉田という女の講員に「ご供養」名目で強制的に掠め取られたものである。
結果、どうなったかというと、私は帰り道、富士宮駅まで10キロメートルの道のりを二時間半かけて歩かねばならなかった。
しかも、この様な事情にも拘らず誰も送迎しなかった、というより送迎するな、みたいな話になってしまったのだ。

ただでさえ金に困っている人間を無理やり来させた挙げ句のこの事件は私の心証を決定的に悪くするものだった。
この事件には二つの重大点がある。
まず、カネを持っていない人間に無理に来させたうえ、本来であればカネのある時で構わないはずのご供養を無理やり強要した点にある。
これは後年に隷属させられることになる法悦院ですら行わなかった悪行である。

しかも、この時集合写真を依頼されたのだが、実費を請求したところ無視されてそのままになってしまったことである。
費用のかかることにカネを請求することは当たり前のことである。
しかし、相手は信者からの搾取と敵対者への嫌がらせしか考えられない宗団である。
さすがは搾取しか能の無い詐欺師宗団だ。

カネの無い人間に対するこの冷酷さを私は生涯忘れない。
今にして思えば、ここで石之坊とは決別するべきだった。
そのせいで後に大きな遺恨を残すことになってしまった。
しかし、これは敵一味によって、及び強迫的な教義によってがんじがらめにされてしまい逃げられなかっただけの話だ。

しかして、これも全て仕組まれたものだったのだ。
仕掛けはこうだ。

1.遠隔洗脳装置による操縦で無駄遣いをさせ常にお金の無い状態に置きその状態を総登山まで切らせない。
2.私を乗せないよう、またカネを貸さないよう根回しする。
3.総登山に強制参加させる。
4.ご供養と称して当たり前だと私を脅し有り金を無理やり出させる。
5.誰も送迎しない。
6.私をとぼとぼ徒歩で帰らせる。
7.ワッハッハ。

機材の不必要な売却を煽ったのは、この1.を徹底させるためだった。
それほどまでしても私を痛めつけなければならない理由が、この時点で既に首謀者である石之坊サイドにあったということだ。

この事件も単に受付の講員による個人的犯行では決してなく、恫喝を行うように何者からか指示が出ていたものである。
そして、受付の女どもは信心の名の下に恐喝を行い、バス代として取っておいた金銭を強奪したのである。
更に、誰も私の帰りを手伝おうとしなかったのだ。そして最後はお決まりの「信心が足りない」で切り捨てられたのだ。結果、駅までの8キロ以上を2時間半もかけて歩かされる事となり、後に禍根を残すこととなったのである。
これは、決して講員個人が惹起した事件ではなく寺ぐるみ、講ぐるみで画策されしかも「本人に教えてはいけない」という危険な手段によって惹き起こされたものであった。
しかも、この時歩かされた道のりがかなりの遠回りであったことが後年に発覚している。当時はまだスマホもタブレットも無く、出先で突然の事態に道を調べることは事実上不可能であった。予め歩く予定であれば、ネットで調べて対応することは可能であったろうが、いずれにしても余計に疲弊させて屈辱を与えることが直接の目的であったと思われ、恐喝のような事態を想定などさせるはずが無かったということか。むしろあのような状況で良くぞ生きて帰ってこられたものだと思う。

この事件を、「石之坊支部総会受付恐喝事件」という。

これ以降、門外漢女は事件の表舞台には出てこなくなる。

実父の病、そして逝去

事件から程なく、私の実父が病に伏した。
この時に懲りずに山崎に連絡した私が間違っていたのだ。
山崎が指示したのは、先の事件の折りに頑なに送迎を拒んだ大塚に折伏してもらえというものだった。
私はというと父の回復を信じて疑わなかったので通常通りの生活をしており、父もそれを望んだ。
12月2日、父を見舞った時、父は今までに無くすっきりした表情だった。
恐らく、今までの様々な執着から解放されたのだろう。
12月6日1時40分、我が最愛の父は天へと旅立った。66歳だった。
ほとんど苦しむこと無く、成仏の相であった。
本葬儀に元妹ら家族、親戚は来なかった。
父が望まなかったのだろうと、今では拝している。
がん治療の真実をこのときに知っていれば救出できた可能性があったが、真実の追及からスピンされていた時期でもあり、なすすべも無いまま父を亡くすこととなってしまったのであった。

この事件は、信心などでは病気からは救われないことを如実に示すものであり、同時に安心できるウソで私をだましていたことをも示すものであった。
こんなことになるのであれば、いっそ宗門から脱退して他宗で葬儀を行えばよかったと今でも悔やんでいる。
尤も、葬儀を行ったのは一般の業者ではあるが。
少なくとも宗門の坊主を呼ぶ必要など無かったのである。

これら三つの事件は、併せて画策された可能性が高い。
つまり、わざと信心に関する事件を惹き起こしておいてこれを言い訳にして真実を隠蔽するつもりだったのである。

こうして2007年は終わり、服喪の中で2008年を迎えたのだった。