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石之坊時代・末期~戦前の暗黒へ

服喪の中で

2008年は服喪のなかで明けた。
明けて1月20日に七七日(四十九日)法要を行い、遺骨を大石寺に納めた。
この法要に、何故か婦人部長の秋山が来ていた。
しかし、私にはその意味が解せないでいた。

2月には総決起大会が大阪であったので赴いた。
この時、当初は参加の予定は無かった。
しかしながら行くことになった。
これは強制的ではなかった。
ただ、今にしてみれば無理に行くことは無かったなと。
やはり大阪まで行くということはそれだけのお金が出てゆく事になる。
しかし、半ば強迫的にお金を使って行く事が信心だみたいな洗脳にかかっていた当時の私に抗う余力は残っていなかった。
然るに、それも電磁波が絡んでおり最早私は常人ではなかったのだ。

電磁波による強烈な洗脳は、私をすっかり別人にし、あらぬ思想や異様に高い理想、夢、憧れといった類が一家を支配し席捲していた。

この頃、いくつかの騒動を起こしてしまったのも、電磁波による操縦と刷り込みの産物に他ならない。
全ては敵一味・宗創医連合軍が100%且つ一方的に悪い。

門外漢女は、恐らくこの時期に以前折伏していた男性とは別の男と入籍し、横山姓に改めている。

以後、石之坊への参詣は激減し、次の参詣は総本山での夏期講習会まで無い。
しかし、それは一大謀略事件を資けるための、電磁波による足止めだったのだ。
お金の無い時には強制的に来させ、余裕のあるときには足止めするというのは人には非ざる汚いやり方だ。
この頃に石之坊で大きな謀略事件が起きていたことを知る由は私には無かった。

この間、2007年秋から筆者には機材の激しい入れ替わりがあった。
これも電磁波による妨害の一環であるが、さらに実父の逝去で生活資金に余裕が無く、機材を一旦売却しなければならないという不幸があった。
しかし、あの不必要な売却とその後の混乱がなければ売却なしで乗り切れたであろうことが後の解析によって明らかになっている。

しかし、懸命の立て直しで6月には念願の70-200/4L ISを手に入れることに成功している。
更に、翌月には当時最新のEOS 40Dが入ってくることになっていた。
そのことが、敵一味・宗創医連合軍の怒りに火をつけることとなったのだろう。

石の湯事件

こうした情勢であった2008年の夏、「石の湯事件」なる疑獄事件が惹起した。
この事件は、ネットのSNSウェブサイト「石の湯」に絡んで運営者の講員を焚き付けておきながらそこにケチをつけさせ、以って当該講員をスケープゴートにして、かつ2005年に就任していた当時の講頭を辞任に追い込んだものである。
そもそもウェブサイト「石の湯」は折伏弘教に資する目的で作られたものである。
しかし、何故か私はその制作運営からは外されてしまったのである。
そもそも石之坊のウェブサイトを作るという構想は何を隠そう私が最初に言い出したことなのである。
にもかかわらず私は外されたのである。
石之坊サイドは私のウェブ制作スキルを極度に恐れてもいたのであろう。
私はウェブ制作においてアマチュアなりに場数を踏んでいる。
CGIもSSIも運用できるしPHPも経験済みでレンサバのノウハウもある。
そして、私が管理に加わると不正はまず出来なくなる。そう思ったのであろう。
つまり、山根・山崎側陣営に与している門外漢女は私の制作したウェブサイトをPCで見ていたことになる。
ここでまず、はじめて門外漢女の嘘が明らかになったことになる。
つまり、奴が自分はPCを持っていないというのは真っ赤な嘘だったことになる。
うそつきは泥棒の始まりだ。
また、入信させられた当時より奴らにとって私は敵扱いであり、その意味においても私を運営には加わらせたくはなかったのであろう。
ご都合主義な石之坊はじめとする敵宗門の者共の本性が垣間見える。

この事件が起こされた理由は、特段筆者と関わりのあるものではないが、やはり住職の意に沿わぬ者を放逐したかったということではないかと思われる。
逆説的に言えば、住職と関係の深い人物が講頭でないと都合が悪いために惹き起こされたということではないかと思われる。それだけにしてはずいぶんと大掛かりなことをしでかしたものである。
この事件自体、特段筆者は勿論のこと門外漢女の利害にも特段関わりのあるものではなかったが、この事件が後になって門外漢女に全てをなすりつけスリカエるために利用されることになるのである。
利害には関わりが無かったようだが、門外漢女はこの事件で体制側に付き、紹介者である当時の講頭(辞任の後移籍)と決裂したようである。
私には関係ないが、仕事で使ってもらっていながらこの手のひらの返しようには開いた口が塞がらない。
なお、後に講頭に復帰した山崎某は「私は知らない」と白を切っていたが、体制ぐるみで行われたものを知らないはずは無く、詳細は不明だが何らかの形で事件の惹起に関わっていたのではないかと考えるのが自然である。

この石の湯事件は、あのロッキード事件とやり方が酷似している。
比較してみるとこうだ。
石:「石の湯」創設に際して私を運営から外し、首謀勢力のいいように運営者を踊らせた。
ロ:航空機の購入に際してロ社に、角栄らに賄賂を渡させてトライスターを入れさせた。
石:そしてある時点でいちゃもんをつけ、虚偽の内容で住職に通報をした。
ロ:賄賂の件を暴露し、国会の場で紛糾させ検察を動かした。
石:そこから紛争が発生し、「石の湯」は潰されO氏は講頭を辞めさせられた。
ロ:角栄は総理を下ろされ、逮捕・起訴された。

いかがであろうか。
故にこの事件は、その類似性から「石之坊版ロッキード事件」というべきものである。

いずれにしても「石の湯」は潰され、一部信徒の離脱を招いた。

石の湯事件以降、筆者は急速に講の中で孤立するようになったが、それも狙いの一つだったのではないか。
つまり、もうひとつの「誘導先」である「地元寺院」への誘導を敵一味は本格化させたということだろう。

この石の湯事件を契機として、筆者は孤立を深めてゆく事となり、暗黒の時代の足音が迫ってくるのであった。

石之坊支部に於ける粛清は今に始まった話ではないらしい。
支部結成以来粛清が繰り返されてきたという話であり、伝え聞いた話なので、断定はできないが、もし真実であればとんでもない話であるし、長年講頭として君臨してきた山崎センセーの資質を問わなくてはいけない。

ともかく、粛清された前講頭をはじめ多くの講員が去り、再び山崎体制に戻った。
前年の事件もあり、私はなおのこと石之坊から距離を置くようになった。

このころになると、父を宗教に引きずり込んだ大塚という男が、自分の担当地域でもない筆者の元をたびたび訪れるようになる。
一方で本来の管轄であった北関東地区の幹部は一度も来なかった。
これには理由があったのである。
つまり、大塚が勝手に行ったことではなく、坊サイドの指示によるものだということである。
恐らく、石之坊幹部「龍神ひろし」(茨城県阿見在住で北関東エリアに該当)が、この時点で既にエリア責任者だったということなのではないか(あくまで推定ではあるが)。
この龍神ひろしというHNの男は顕正会から来たカルトサーファーである。先述のとおり阿見で隠れて暮らしているらしいが、そのキモヲタ振りはネット上で一目瞭然となっている。
奴の本名については既にネットで拡散されているのでここでは割愛する。
なお、この男は2016年12月の宗務院録事において役員認証が公にされており、幹事として名を連ねている。

石の湯事件のあと、石之坊ではネットが禁止となった。
しかし、龍神はこの当時からブログをやっているのが確認されている。これは明らかなダブルスタンダードであり、片方でネット禁止を標榜しておきながら龍神にはネットをやらせているということになる。
どこまでもご都合主義なのである。
これでは到底創価のことなど言えた義理ではなかろう。同じ穴の狢である。

僧侶の序列は厳しく、より上位の僧侶が指示しないことを勝手に出来るほど甘くは無いこと、更に僧侶と信徒の間にも厳しい身分差があること、更に信徒も僧侶の指示にないことは勝手に出来ないことを考えると全ては宗門ぐるみだったということになろうか。
つまり全てのハラスメントや交際事犯など、宗門寺院において惹起したことは全て宗門上層部の指示、ということになる。

機材の方は、先述の40Dと70-200/4L ISを擁し、さらに18-55mmとスピードライト(ストロボ)420EXを入れ体制が固まり機材が安定した。
しかし、その身を以って第六天の魔王たる敵一味・宗創医連合軍がそれを黙って見過ごそうはずが無かったのである。

この頃からSGでは機材変更強要の激しい煽動が始まる。

こうして2008年が終わり、2009年へ、そして戦前の暗黒へと向かってゆくのであった。

年が明けた2009年1月、当初予定に無かった初御講に参詣した。
これは全くの思いつきである。
この年は、訳があって御開扉に事前の申し込みが必要で、いきなり添書を持って行っても御開扉は受けられなかった。
私もその事は承知で行ったのだ。
しかし、この参詣に住職の夫人が噛みついてきた。
この住職夫人は以前から問題発言が多く、度々私に噛みついてきて怒鳴り飛ばすようなことを繰り返してきた。
しかして、この日もいきなり頭ごなしに怒鳴られた。
今にしてみればそれはガスライティングであったのだが。
さすがに私もこの時は怒り心頭で家出同然に飛び出し撮影に向かったことを今も鮮明に記憶している。
やはり、罵倒させるために参詣を思いつかせた精神操作だったのではないだろうか。
テクノロジー犯罪の犯人は宗門側だ。

以後、再び石之坊への参詣の足が遠のくこととなった。

新しい山崎体制は、以前の山崎体制とは全くの別物である。
役員人事は、全て横山センセーの息がかかった人物で占められていたのだ。

この頃、SG現場の絡む謀略事件があり、過去最高レベルにあった機材が凋落を始めていた。機材変更強要事件が惹起したのだ。
SG現場には、写真をやっている奴が二人入っていたのだが、そのふたりとも向こう側の工作員だったのだ。
その煽りと敵一味の感情操作によって、機材を切り崩すというきわめて邪悪なやり方の事件であった。
敵一味が問題にしたのは、キヤノンという企業、そしてその会長である御手洗の体質であった。
今にしてみれば大したことではないしどこも似たようなものであるのだが、当時は真実の追究を宗教の教義などで目眩ましされ洗脳されており、まんまと騙されてしまったのだ。
こうして当時最高レベルにあった機材は切り崩され、ソニー製カメラへの代替を強要されたのであった。
入ってきたのは、当時新品が投売りされていたα700と、70-300G SSMの初代だった。
標準ズームは、レンズメーカー製の18-200mmだったが、歩留まりが悪く数ヶ月で代替している。

なお、山崎は以前、年末御開扉参詣の折り、私が持ってきていた借り物の白レンズに文句をつけてきた事がある。
いずれにしても、この時点で私はすっかり敵にはめられていたのだが、巧みな誘導によって全く気が付かなかった。

そのような中ではあったが、なかなかそのSG現場の仕事を抜け出せず、解決の糸口は見いだせなかった。
3月、それまで派遣主体だった現場が派遣先企業の方針により、直接雇用(契約社員=直バイト)を原則とするように改める動きが興っていた。
現場を抜け出す、絶好のチャンスであった。
しかし、それは敵一味の意向に真っ向から逆らうものであったのだ。

私は、派遣元に別の現場を紹介するよう迫った。
しかし、出されたのは期間限定で、しかもとんでもなく遠い現場だけ。
要するに、まともな所を紹介する気など無かったのだ。
敵一味・宗創医連合軍が、現場から脱出することの無いよう手を回していたのだ。

それだけではない、後にやっているように一旦失業してしまう、というやり方もあった。
しかし、頭を押さえられていたのでこの時には出来なかった。
失業すると生活できないぞ、という脅しを刷り込まれていたのだ。

結果、筆者も直バイトに切り替えざるを得ず、4月から契約社員となった。
しかし、この頃には筆者を除いて全員工作員という有様で、環境は劣悪だった。
それでも、仕事の傍ら撮影に精励し、関西でも最後の追い込みを掛けた。

しかし、1月のシステム切り替えに端を発して経済的な行き詰まりが見えはじめ、レンズはレンズメーカー製の廉価なものになっていた。
それでも、画質優先のプライドは守り通していたが、破綻の時は足音を忍ばせて近づいていたのだ。
仕事は、週払いから月払いになり、派遣から直バイトに変わりはしていたが、非正規雇用の本質は同じであった。
本来であればもっと早く父が健在のうちに辞めて今の仕事に戻るべきだったのだ。
しかし、門外漢女をはじめとする石之坊の面々はその点には一切触れず猿をおだてるが如き態度だったのは以前書いた通りだ。それは、恐らく石之坊の皇帝である山根一順の指示によるものであろう。住職といえども勝手なことは出来ないことを考えると、更にその上、つまり宗務院からの命令に基いているはずである。
何といっても、頭を押さえられていたのでそこまで考えが及ばないようにされていたのだ。
その時点で既に深謀遠慮があったと気が付かなければいけなかった。

そして時が流れて同年8月。
仕方なく続けていた仕事が行き詰まり(これも一味の策謀が絡んでいる)、私は出直しを決意したのだがここで感情操作が行われ、向かってはいけない寺のほうに向かわされたのである。