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第一次解放聖戦、石之坊とSG現場との決別

第一次解放聖戦初期の戦闘

2009年8月、いやいやながら続けていた仕事が取引先の例の謀略女の策略などによって行き詰った。
何者かがある取引先にけしかけて、あらぬクレームをけしかけてきたのだ。
それが聖戦の端緒だった。
このクレームがためにするものであったことは、結局返金も何も無かったことが証明している。
さすがに私もこの時は観念し、その仕事を辞めることにした。
先のことは考えていなかった、というより考える余裕はなかった。
ここに、第一次解放聖戦の火蓋が切られることとなった。
第一次解放聖戦の初期の戦闘は、専ら当時同じく隷属させられていたSG現場からの決別のための戦いとなった。

本来、この不当クレームの目的は筆者を完全に貶め隷属させることがその目的であったといわれる。
謀略の趣旨からいえば、このクレーム作戦は完全にやりすぎで、それで辞めてしまうことまでは考えられていなかったということだ。
何といっても、敵一味の意向に真っ向から逆らう逆マッチポンプを自分たちでやってしまったことになる。
敵一味にとって、初めて露呈した綻びであったのだ。

なお、先述のとおりこの謀略女もグルであり、敵一味の側に属している輩である。
ここにいたり、漸く筆者も決心が付き
「とにかく、この現場を去ろう」
と、心に決したのであった。
私は、速攻で退職届の書式を整え、会社に提出した。
あの場所あの職場、あの連中を、そして忌まわしき過去その総てを清算するのだ。

そして、締めまで待てという要求も突っぱね、9月8日限りでの退職が決定した。
しかし、厳密に言えばたとえ14日でも引っ張れば法律違反になる。
退職届を出してしまいさえすれば、いつでも退職できるのが本当の法的な決まりだ。
会社側の都合ならいつでも辞めさせられるのに逆がそうはいかないのは、こうしたからくりがあるからである。

退職が決定したことで、もうあの女の顔は見たくないと思った。
もちろん退職してしまえば顔を見ることもないが、それ以前でももう見たくは無かった。

ここで、筆者はあることを思いついた。
それは、
「謀略女には退職のことを言うな」
というものである。
そして、その取引先にはテコでも行かなかった。
モノがあるときは別のバイトを差し向けた。
退職が決定していた関係上、最早
あの女の知らないままに姿を消して、「気が付かないお前がタコ!」というのを私は狙ったのである。
しかし、SG現場の者どもがそれを守っていたとも思えず、謀略女に筒抜けになっていた可能性が高いというのが現在の見立てではある。

謀略女は勿論のこと、舎弟の女の顔も二度と見たくは無かった。
この時が、女性不信の最も強盛な時期の始まりであった。

私は、最終日に至るまで何事も無かったかのように外では振る舞い、気付かれないように細心の注意を払った。もし気付かれるようなことがあれば、他の取引先からリークされないとも限らないからである。
そして、Xデー、9月8日はやってきた。
その日も、筆者は淡々と業務をこなし、何事も無いかのように振舞ったのは云うまでも無い。
特別な感情というものは特に無かった。
そして2009年9月8日19時20分、その暗黒の日々に私は幕を下ろしたのである。
全て、これっきりだ。
あるのは、感傷ではなく新たな日々への期待ですらあった。

現場を後にしたあと、私は時間調整のため繁華街に入り人ごみに紛れた。
恐らく、これで最後になるであろうと思ったのと謀略女に出くわさないよう細心の配慮を払ったためだ。
そして、翌日の予定が無く時間を気にする必要が無かったのだ。
そこで私はそれまでのすべてを片付けた
…つもりでいたのであった。

石之坊への飛び火

解放聖戦初期の戦闘において、忌まわしいSG現場からの解放を果たした私に、それ以上の戦闘は想定になかった。
しかし、解放聖戦の戦局は思わぬ方向に転ぶこととなった。
戦いはSG現場だけでは終わらず、当時属していたもう一つの世界である石之坊にも戦火が飛び火することになる。
SG現場は、将来性のない非正規の現場であった。
私をそこに固定しておくこと敵一味・宗創医連合軍、特に宗務院の堅固な意向であった。
従って、私がSG現場を去ったことは敵一味にとって大いに想定外であったのである。

2009年9月13日。
8ヶ月ぶりに参詣した私の目に、信じがたい光景が飛び込んできた。
その先にあったのは、常識では考え難い、チンピラのごとき新入講員が悪態をついてたむろする姿であった。
私は仮にも彼奴らより何年も先輩だった。
況してこの信心に入る者であれば、何年もやっている人には仮にも敬意を表すべきものだ。少なくとも初対面のときは。
だが、奴らのひとりが発した言葉はそれまで考えていた法華講員のそれではなかった。

「てめぇから挨拶して来いってんだよ!」

この瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れてゆくのを止めることが出来なかった。
もちろんそれに応じる訳など無いが、私の記憶違いでなければ、それが龍神だったのである。
私は、それまで龍神の顔など見たこともなかった。
石之坊サイドは、予め用意してあった「親衛隊」を石之坊の玄関付近に配置したのだ。
そして、私に対して口汚い言葉で威嚇させたというのが真相である。

この日、御講に門外漢女の姿は無かった。しかし、その主人と思しき男がいた。この男も、私から見れば明らかに新参者の類だ。
しかし、この男は、他の講員には普通に挨拶をし話をするが、私に対しては態度が豹変しなめた態度をとる。
さっきのチンピラ新入講員も同じだ。

何が起きたのか、私にも程なく理解できた。
それでも、この日はどうにか御開扉まで持ちこたえた。
というのも、この時点ではまだ山崎を、石之坊を少しでも信用していたからだ。
しかし、私が見たのは、石之坊支部の変わり果てた姿でしかなかった。
今までに無い居心地の悪さだった。

普通であればそこで気付いてもよさそうなものであったのだが、敵一味の洗脳の影響下にあったことでそれが妨げられたという経緯がある。

つまり、これは全て山根・山崎等石之坊サイドの謀略であり、宗務院の役僧から指示が行っていたに違いない。
この時点で、奴らが私をどこに飛ばすのかといった事項が、既に規定路線になっていたということになる。

後に山崎と電話口で戦闘になった際にこの件を問い詰めたが、奴は一方的に私を妄想呼ばわりし「親衛隊」の連中を守ったのであった。
つまり皆グルだったのである。

ともかく帰還した私であったが、やはり重い腰が上がらない。
悪い癖なのはわかっている。
しかし、あの忌まわしき日々を忘れるためにしばらくのんびりしていたかった。
しかし、それは極限まで私を貶める為にあらぬ感情を刷り込まれていたものだったのだ。

事件の翌日、私はスリカエられていた機材を全て売りに出し、当面の生活を凌ぐための資金としている。
そのような状況だっただけに早く仕事を探すなり生活保護を申請するなりするべきだったのであるが、それを敵一味が遠隔洗脳でさせなかったのである。

すると程なく、これまで使っていたほうの携帯電話が鳴り出す。
重要な連絡先は新しい携帯電話に集約していたので、そこに掛けてくる奴は限られる。
本来であれば解約するべきところだが、当該の携帯電話はプリペイド式であり、解約というものはなかったのだ。但し、一定期間利用がないと自動的に契約解除になるのであるが。

案の定、SGにいた千ラシ裏女だった。
この女について少し書いておこう。
この女は1980年生で、旧派遣先の社員であった。
しかし、この女も根掘り葉掘りであれこれ聞き出した挙句に態度を豹変させ、しまいには例の「お前の頭と同じでな!!」発言に及んでいた。
この発言は、SG末期に為されたものであった。
私がいるときには散々嘲笑した挙句に侮辱にまで及んでおきながらやめるといった途端涙目になって電話までしつこく掛けてくるというのは一体どういう神経なのか。
人はそれを手前勝手と呼ぶのである。

ともかく、私は全て切ったつもりでいたので、出るつもりなど無かった。
無視していると、何度もかかってきた。
仕舞いには、固定電話にもかかってきた。
結局、固定電話をファクス専用にして凌いだ。

その月末はまだ給料と呼べるものがあった。
しかし、もう余裕は無かったはずであった。
明くる月も本山に行っているが、今にしてみればその前にやることがあったのではないかと思うところである。
この時、住職夫人はカメラを持っていた。
自己紹介とやらをやらされるのだと理解するのに時間はかからなかった。

先月嫌な思いをしてトラウマにすらなっている連中の前で晒し者になれというのか。

たまらず私は本堂を飛び出した。
御開扉まで大石寺の境内を散歩して時間を潰し、御開扉の後はさっさと引き上げてきた。

…とそのときだ。
憎き門外漢女の姿が目に入った。
いるのはわかっていたので、なるべく避けて通ってこようとしたが…。
あのときのわざとらしい笑い方は今でも覚えている。
人を小ばかにするのもいい加減にしろ。

当時はわからなかったが、あれは
「こっちの意向どおりだ、いいぞ」
という意味合いの、まさしく人を小ばかにした笑いだったのだ。
大粛清でSGを脱出してはいたが、それでもなお洗脳が解けた訳ではなかったのだ。
大粛清は石之坊サイドにとっても門外漢女にとっても大いに想定外であったが、それでもなお自分がグルであることを隠すための笑いでもあった。
そこでしかめっ面でもしようものなら、すぐさま石之坊、そして敵宗門の大謀略が白日の下に晒されてしまいかねないからである。

これではさすがに失望を隠しきれず、足が遠のくこととなった。
だが、このときは御講などに足を運んでいる場合ではなく、本来であれば節制に努め一刻も早く再建に踏み出すべきであったのだ。
しかし、敵一味の手先に頭を押さえられていたので動くことが出来ず漸く動き出した時にはもう手遅れであった。
敵一味が、筆者がSG以外の他所で就職することの無いように企んだものであった。

万策尽きた筆者は市役所に生活保護を申請することにした。
しかし、生活保護の申請は門前払いされ、代わりに公的融資、つまり借金することを強要されたのであった。
公的融資と言えば聞こえはいいが、早い話が借金である。
生活保護を受けさせない為には借金させることも辞さない、というよりその為の制度が公的融資なのである。
審査とは名ばかりで、融資を受けさせるのが既定路線なのだ。
本来、生活保護の申請は受理する義務というものがあり、この対応はきわめて違法性の高いものである。その後、この件について本来は生活保護で対応するべきであったとして役所に補償を求めたが、役所側は証拠を残さないようにしており、敵一味によって当方で証拠の残るやり方をすることも押し止められており、現在に至るまで軋轢の大きな要因となっている。

余談であるが、下手に「相談」などすると役人は狡猾なやり口で申請させまいとするので、最初から申請ありきの厳しい態度で臨むべきであり、できれば申請書を作成して持参するのが望ましい。たとえ口頭であっても生活保護の申請は受け付けなければならないのが決まりであるので、このことは覚えておくとよい。また、借金は収入ではなく生活保護を断る理由にはならないのでこれも覚えておくといい。
なお、この一件には敵一味も大いに関与していると見るのが自然であり、私に重石をつけて身動きがとれないようにする目的で不当に借金を背負わせる目的があったものと思われる。そのことは、後に賠償金簒奪事件において一括償還の計画があったものを敵一味がBMIによって押し流したことで説明が付く。

ともあれ、生活再建に向かって一家は動き出した。
筆者は、この頃
「今のままではだめだ。絶対に正規雇用で就職しなくてはいけない。」
との考えに到達しており、再建への決意を固めていた。
11月初め頃のことである。

その後、11月の御講を前にして、この頃筆者に取り入ろうとしていた大塚という男が電話を掛けてきた。
そこでしゃべってはいけなかったのだが、それ以前に向こうは宗門上層部から現在の状況を聞いていたようだ。
石之坊の連中には当時何も話していないが、敵一味のBMIによってすべて筒抜けになっていたのだ。
大塚は、
「日払いで働け」
などと恫喝してきたのだ。
しかし、既に再建への道のりが決まっていたので私は紛動されることは無く実害も無かった。実害こそ無かったが、この一件は石之坊から心が離れるには十分すぎる決定打となった。
勿論既に資金が底を付いており、そのことも相俟って参詣の足が遠のいたのは云うまでも無い。というより、それどころではなく参詣停止は当然の措置である。
尤も、最早行くだけ無駄であったのも間違いない。
この頃、庭に放置していた原付車を、通路脇のスペースを使わせてもらえることになっていたのでそこを整備し、そちらに移動した。
原付車をどうするか、まだその時点では決めていなかったが、故障車では値段はつかないと、買取業者に言われていた。

敵一味による意図的発覚、事態の膠着

カネが入ってくるのを待ちつつ、筆者はじっと耐える日々が続いた。
ここで、敵一味の策謀によるミスリード目的の意図的発覚という事態が起こった。
その内容は、敵一味の策謀の内容の一部を、門外漢女の犯行という内容にスリカエたものであり、将来に亘って行為者の正体を隠蔽し続け以って宗門に縛り付けておく意図があったのである。

この時解ったことを簡単に列記すると
1.門外漢女は、私に対して峻烈な憎悪を抱いている。
2.デジタル一眼スキャンダルは私の写真活動を最終的に潰すためのものである。これは以前に公開で追及した理由でもあるが以前の記事の通り惨敗し追及が失敗に終わっていた。
3.自動二輪計画を巧みな文言で誘導され圧殺されたこと。この時初めて謀略と気づいた。
4.自動二輪計画圧殺も、同じく写真活動潰しであるが、それのみならず私の人生をぶち壊しにするためでもある。
この時解ったのはざっとこんなものである。
確かにここまではその通りであったのだが、敵一味はその行為者、そして首謀者をスリカエていた。
もし宗門が首謀者ということがわかってしまうと、即刻脱退につながってしまい抹殺の計画が上手くいかなくなってしまうからである。だからその代わりに門外漢女をデコイにして吹き込んだのであり、そのようにでっち上げたのは宗門宗務院の役僧だ。
敵一味はこのほかにも多くのことを遠隔洗脳によって吹き込んでいるが、全てウソでたらめであるゆえここでは載せない。
後年になって龍神が脅迫事件を惹起した折に「全部ウソでたらめだ」とほざいているが、そのウソでたらめを仕込んだのはてめえら宗門法華講だろうが。

この時から、再建の道のりは失われた活動を取り戻す為のものとなった。
しかし、それでさえ刷り込みであることは後々思い知る事になる。
敵はどこまでも人の心を踏みにじり、そして狂わせることに余念が無かったのだ。

年の瀬より本格的に写真活動を再開した。
やがて再生が動き出したが、敵一味はその目的をスリカエて私に不要不急の機材購入と活動を強要したのであった。

再生が動き出す間もなく、年が明けて2010年となった。
しかし前途は多難であった。

公的融資といえども条件があった。
当然就職活動が前提であった。
そのため定期的に職安に通うこととなった。

職安は、常磐線をふた駅下ったところにあった。
しかしながら、通う足は自転車だった。
片道一時間を要していた。
当時はまだ健常者であったにも拘らず今よりも時間がかかっていた。
やはり敵一味によって身体を操作されていたためであろう。
だが、普通であれば電車だっただろう。
往復しても380円に過ぎず今にしてみれば不可解だろう。
380円をケチってどうするのだと一般のニホンジンは思うだろう。
尤も、今であれば自転車生活は当たり前であり何とも思わないのだが。

しかし、敵としてはこれにも理由があったのだ。
要諦は二つある。
一つは就職活動から筆者を遠ざけ以って多額の借金を新たに背負わせること。
もう一つは自転車を利用して劣等感を煽ることにあった。

求人も見るには見たが条件が折り合わず面接には至らなかった。
しかし、これは敵が条件を異常に吊り上げて折り合わないように仕向けたものだった。
いかんせん敵は洗脳装置を擁しているだけに弄り放題だったのだ。

就職活動から遠ざける策動に、敵一味は鉄道趣味も利用したのであった。
不要不急の活動に走らせることと条件を異常に吊り上げて就職させないことによって、無用の借金を背負わせて将来に亘って重石にすることを敵一味は画策していたのである。
その意図は、将来に亘って宗門から逃さないようにするためであり、「罰・罪障」の演出とこじつけで搾取し続け、最終的には抹殺することにあったのである。

公的融資は、毎月決まった日に決まった額が振り込まれる方式だった。
その日を中心に生活が動いていたのだが決まって数日で余裕が無くなり自転車生活になっていた。
今でこそ自転車生活は当たり前のものになっているが、それは確固たる信念に基づくものでありそれが無かった当時には相対的価値観で煽って劣等感を煽る格好のネタになっていたのである。

また、貸付の本質も頭では解っていても、中々前に進めなかった。
そこで私は大きな過ちを強要されることになる。
それは、必要の無い機材高級化であった。
それは、完全に敵の刷り込みに因るものだった。

機材の高級化それ自体はそれほど悪いことだとは思わない。
ただ、再建をさし措いてまで急ぐことだっただろうか。
再建の道筋が付いてあてがあれば別に悪いことでもないのだろうが。

原付が動いていれば、という思いは、自転車によってしばしば劣等感に変わり、門外漢女をはじめとする石之坊の面々に対する怒りを伴って激しい嵐を心に巻き起こした。

特に、写真活動に於いて自転車で行ってうまくいかないことが続き、「このままでは潰される」と思った。

そして4月を迎える頃、漸く事態が動き出す。

漸くの決意、そして最後のたたかい

門外漢女をはじめとする石之坊の面々による数々の謀略に巻き込まれてきたこと。
門外漢女の取り巻きがいまや石之坊内で一大勢力となっていたこと。
山崎のしてきた大本営発表…。

ここに至り、漸く「石之坊を脱退する」ということを決断したのだった。

ただ、無条件に脱退するという訳ではない。
その前にやる事がある。
門外漢女らによる数々の悪業の追及である。
そして、何と言っても出て行くべきは門外漢女の方だと思っていた。
よって、厳密には「門外漢女の除名を要求して、叶わなければ石之坊を脱退する」である。
しかし、情勢の不利は承知していた。
だから私は、刺し違える覚悟で行って、駄目なら辞めようと決めた。
とどのつまりが除名も覚悟の最終聖戦だ。
そして私は賽を振った。

要求の内容をワードに起こす。
署名と捺印を加える。
体裁が整い、講頭・山崎に電話をかけた。
そして、石之坊の講頭に復帰していた山崎との間で激しい戦闘が行われた。
門外漢女がどれだけのことをしてきたか、という事を話すが、暖簾に腕押しであった。
電話口での戦闘において、山崎は「お前のためを思って言ったんだろうが!」という趣旨の暴言にまで及ぶという事態となり、完全に敵対者としての本性を露呈したのであった。
そして決定的な言葉が山崎の口から出た。
「人のしたことを金に換算するのは」
完全に盗人猛々しい物言いだった。
当然口論となり、水掛け論は延々と続いた。

あれだけの事をして人に大損をさせたのだから、それは償うのが、一般の社会常識に照らしても当然のことである。
時間を戻せない、結果を変えられないのであればそれは当然お金で払ってもらう他無い。
したがって、謝罪と賠償を速やかに誠意を以って行うのが門外漢女と石之坊の義務である。
しかし、この正論が山崎には通用しなかった。
山崎の論調は、きわめて一方的で、且つ大本営的である。
山崎に通用しないのだからカルト宗門に通用しないのもある意味当然であるといえる。

話し合いの要求に対して、敵側は4月10日を指定してきた。
これには目的があった。
敵側の意図に反してそのままフェードアウト(宗門から完全に脱退)することを妨げる狙いである。
指定日の翌日は、敵宗門の寺院で「御講」が行われる日であった。
日にちを置かないことによって、考える時間を奪い意図に反してそのまま宗門から離れることを妨げたのである。
敵側の意図とは、「地元寺院」つまり法悦院に移籍させるということである。
それが証拠に、住職・山根は一方的に法悦院を移籍先に指定してきたのである。
当方には、そのような意図は無く、その後については何も決めてなかったというのが真相である。

覚悟の決戦、そして…

石之坊を脱退すると心に決めたとき、その後のことは考えていなかった。
ともかく乗り込んで、白黒はっきりさせることが先だったからである。

2010年4月10日10時。
最後のたたかいが始まった。
しかし、その最後のたたかいの場に門外漢女は来なかった。
先に送付していた文書には門外漢女の追及と話し合いの席に同席させることを要求に盛り込んでいる。
しかし、結論は先に出ていたのだった。
私ではなく、石之坊サイドの方でである。

石之坊は私ではなく、門外漢女の方を守るという暴挙に出たのである。
つまり、乗り込む以前の時点で結論ありきだった訳である。
私はそうではなく、門外漢女の追及が先だと考えていた。
しかし石之坊側は奴に対する追及を許さなかった。

これは、重大な言論封殺であり石之坊には言論や信条の自由が無いということである。
そして、山崎と門外漢女は完全にグルであるということである。
そして、こちらの要求は完全に封じられたのであった。
結果、私は石之坊を脱退することに決めた。

門外漢女を同席させての話し合いに応じなかった理由は二つある。
一つは、話し合いに同席させることによって激しい非難に直接さらされる事態を防ぐため。
山崎ですら手を焼く相手である筆者を同席させたらどうなるか。
況して門外漢女はただのザコに過ぎないし百戦錬磨でもない。
そこでポロッといかれては困るということだったのだろう。
要するに、実行犯を寺ぐるみで守ったということだ。
もう一つは、疑念を解決させないことによって引き続き、門外漢女の存在を寺ぐるみ関与の隠蔽とハラスメントに利用し続けるためである。
予定は1時間であったが、20分後には石之坊を後にしていた。ほぼ一方的な侭で。
手元には1枚の紙切れが残った。
こうして、6年半にも及んだ、石之坊の日々は終わった。

なお、門外漢女は2010年4月1日付にて横浜地区の地区長に任命されている。
龍神ひろしの虚言癖から云って、以来石之坊で要職にあると見るべきであり、それが後年になって宗門法主からの認証という形で公になっている。
いずれにしても、長年寺ぐるみの工作に貢献してきたことに対する褒美として地区長の椅子を与えられたのではないか。手先は優遇される。この世でではあるが。
対照的に龍神ひろしは入信してそれほど経たずに地区長になっているが、新規の任命であり(前任者が無いという意味)、人材不足から起用され、その後精鋭工作員としての教育を受けたのではなかろうか。
その時期は2008年から翌09年の前半にかけてということになる。
玄関口恫喝事件の時点で既に精鋭としての本性を見せていたことからそのように推定する。
しかし、どこまでも宗門の意向に忠実な工作員という意味では両者ともその本質には何ら変わりが無い。
ともに傘下のカルトからの転籍であり、工作にはもってこいの人材であったということである。

脱退のあと…

2010年4月10日10時20分、私の6年半にも及ぶ石之坊の日々は終わり、私は本山をあとにした。

その後、敵一味によって余計に迷走させられた挙句乗れたはずのバスに乗れず、私は結局本門寺方向に歩みを進め、朝霧高原方面からのバスに乗って帰ることにした。
本門寺の交差点まであと僅かの地点だった。
車とすれ違ったとき、誰か女の声を聞いたような気がした。
少し措いて振り返ると、横浜ナンバーの大きな緑色のワンボックスが大石寺方向に走り去っていた。
車の主は、間違いなく門外漢女である。

つまり、山崎らは私が去る予定の時間まで門外漢女をどこかで待機させ、顔を会わせない様にまでしていたのである。
一体、どこまで人をなめているのか。
さらにはバス降車時に暴漢に突っかかってこられる事件が惹起している。これは敵一味の得意とする「罰・罪障」の演出のためではなかろうか。

ともかく、石之坊の日々は終わり、今後を考えなければならなかった。
正直、石之坊を脱退すると決めたとき、私はしばらく無所属になる事も考えた。
しかし、この先の信行、さらに我が尊父はじめ先祖代々追善供養のことを考えると…。

ともかく、不当に粛清されたことによってではあるが第一次解放聖戦は終結し、忌まわしき石之坊の日々は終わったのであった。
しかし、その先には全く想定外の地獄が待ち受けていたのである。