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聖域なき見直し、そして宗門脱退

2013年9月、私は人工透析への転落という決定的な不幸を味わう事となり、ここに敵宗門のまやかしは完全に崩れ去っていた。
しかし、宗門からの脱退を、敵一味が許さなかったのである。
だが、この決定的な不幸、更なる重大事犯の惹起により、いよいよ敵一味の作り上げてきた「信心の化城」に大きなひびが入ろうとしていたのである。

漸くの損切り、機材レベルの回復

2014年3月に至り、ついにクルマを手放して損切りをする決意をし、これを執行に移した。
その日より、日々の足は自転車となり現在に至っているのだが、まだ傷病手当の時間が長く、苦しい時間を強要されることとなった。
本来であれば、ここで小型のバイクに切り替えておけば当面の足の問題を解決できたであろうが、それも生活保護を受けない限りにおいてであり、それであれば前年秋の時点でやっておくべきことでありここでやることではなかった。
それを考えれば、将来を考えてカメラの代替を実施したのはある意味理にかなう選択ではある。余程の高級品でもない限り生活保護でもカメラ程度は問題にはならないからである。それを問題にしようとする輩は労奴の思想に毒されているということであり、弱者に対する八つ当たりであるからその様な輩に対しては厳しくやる。
なお、今でこそ自転車生活は「買ってはいけない」の一環でもあり思想的にも当たり前であるのだが、当時は真実追究の再開前であり、まだ従前のキリスト教的・相対的価値観に縛られていたこともあり、自転車生活への「転落」と取られていた節があり、これが精神的にかなり堪えていたのも事実ではある。

斯くして、カメラ機材についてはほぼ最高レベルであったといえるほどのところまで回復を見ることとなった。
しかし、これが余程面白くなかったのか、敵一味による根回しによってネット上で冷戦が熱戦になる事態が生じた。これによって、一時ツイッターチャンネルを閉鎖させられる事態にまで追い込まれたが、翌月再開にこぎつけている。
結局戦闘は6月まで続き、当該の相手が追放を受け入れたことで終結を見た。
なお、当人が創価学会員でないと疑惑を否定していたが、当事者全員が学会員若しくは法華講員のいずれでもある必要は無く、誰か一人が工作員であれば事足りる話である。したがって、敵陣営側の誰か一人がいずれかのカルト団体に属していたのではないかというのが専らの推定である。
また、当人のブログが特に近年において個人ブログ型煽りブログとしての特徴を露呈しており、やはり支配層側の御用ブログと化しているのではないかと現在の当家では見ている。支配層側の御用ブログをやるのに何も必ずしも創価学会員である必要は無く、支配層側から支援を受けていればそれで事足りるのである。

そんな中、鉄道趣味というものに疑問を持つに至り、6月中旬を最後に活動を停止し遠征の要求も全蹴りにした。

目の当たりにしたもの

この頃、春の法華講登山会というものに11年目にして初めて参加したのだが、集会で扇子を振り回して訳のわからない歌を歌うなどやることが創価学会と何も変わらないのを目の当たりにした。正直言って、非常に気持ち悪いものであった。
すぐにではないにしろ、敵宗門に疑問を持つようになった一つのきっかけであることは間違いなく、まさか登山会に参加させたことが離反の端緒になるとは伊藤を始め幹部一同誰も、夢にも思わなかったことだろう。

既婚者による交際類似事犯

このような最中、カルト構成員と思われる既婚看護師による思わせぶり事件が惹起していた。

その様な最中、私は先の柏原による交際類似事犯について班長の伊藤にこれを問い質した。
しかし、伊藤は年齢などと云う理由にもならないモノを持ち出して誤魔化し、全面的且つ一方的に柏原を守ったのだ。
この伊藤という男、それ以前にも女子講員どもによるいわれなき誹謗を「一理ある」などと肯定する敵対発言を行っており、その時点で疑問を持つべきだったのであるが、敵一味の遠隔洗脳と宗教の教義による強迫観念の相乗効果によってそれが妨げられていたのであった。
いずれにしても、一方的に惹起者を守ったこと自体が寺ぐるみ・講ぐるみであった証左であり、この伊藤英巨という男が直接この事件を指導していた何よりの証左であったのだ。無論その上には宗門僧がおり更に宗務院の指示があったことは間違いない。
伊藤が惹起者を一方的に守ったことは、後に宗門に対する失望を招くこととなる。

5月になり医局への問い合わせで問題の看護師が既婚であることがわかり、この者を追放するように迫ったが、病院側は却って私を精神異常者扱いし、心療内科を差し向けるという暴挙に至ったのである。
その目的が精神科に誘導して抹殺することにあったと悟った私がこれを退けると、それまで穏健なそぶりを見せていた病院側特に医師が一転豹変して、私だけを一方的に悪者扱いして追放する決定をし、病院ごとグルで惹起者を守ったのである。
なお、この問題の医師はそれ以前に就業問題など私の人生に不当に介入し、以前の仕事に引き戻そうと何度も迫るなど非常に悪質な輩であった。
そのようなこともあり、私は屈辱的ではあったがこの病院を去る決断をする。
しかし、敵一味の誘導によって予め敵側が予定していた問題のクリニックに誘導されることとなってしまったのであった。
そのクリニックと、私が敵に強要されてやらされていたサイトの双方に同じ語句が名前として含まれていたことがその証左だ。
しかし、そのことに気付くには今しばらくの時間を要することとなる。
病院ごとグルであったのは勿論、宗門・創価・医療利権の三者がグルになって惹き起こされていたのであり、宗門であったような一方的な惹起者を守る行為を当該の病院も行ったことこそがその証左であったのである。先のやたら患者の人生に介入しようとした医師の不審な行為も然りである。

そして転院をした直後のことであった。
伊藤がやおら、突然大型仏壇の話を持ち出してきたのだ。
私はあまりにも大きな違和感を覚えており、本来であれば断るべき代物であったのであるが、敵一味の遠隔洗脳によってこれが捩じ曲げられ、不当に受け入れさせられたのであった。
この大型仏壇の押し付けは、将来に亘り私を日蓮正宗に、そして法悦院に縛り付けておく意図で行われたものである。つまり重石である。
しかし、そこまでして敵が私を縛りつけようとしなければならないということは、最早洗脳だけではその所業を、数々の犯罪行為を誤魔化しきれなくなってきていたということではなかったか。
そして、それが露呈する時がいよいよ近づいていたのである。

漸く動き出した真実追究、参詣停止、聖域なき見直しへ

6月の下旬に至り、ネット上の戦闘が終結したことを契機としてついに真実追究への動きが始まった。
ツイッターチャンネルは瞬く間に一定の支持を集める事となり、玉石混交ながらも様々な情報がもたらされることになる。
それによって、私がこれまで何者かに騙されていたであろうことが次第に露呈したと同時に、自分の置かれたあまりにも不幸すぎる境涯をも浮かび上がらせることともなったのである。

さすがにこのような状況に至り、さすがに私も信心、果ては宗教というものに疑問を持つことになる。
それは、人工透析というほぼ回復不可能な境涯にまで貶められ、然るべきだった縁は断たれ、交際類似事犯ばかりが大手を振ってまかり通るような状況という、いわば「現証」の面からの疑問であった。
つまり、この宗教には本当は力は無いのではないのかという疑問である。

斯くして私は、2014年8月15日の盂蘭盆会を最後に、当時隷属させられていた法悦院への参詣を停止して聖域なき見直しに入ったのである。
この聖域なき見直しは、私が当時関わっていた全ての世界・事象が対象であった。
鉄道趣味の活動は、6月以降止まったままであった。

10月になり、案の定伊藤が訪問してきたが、そこはどうにか誤魔化して引き取らせた。

そして、見直し開始から約2ヶ月。
敵一味が行ってきた、重大な運命操作が初めて発覚する。
それは、2001年のネット参戦に絡んで行われた鉄道趣味の不当な焚き付けによる真実追究からのスピンであった。
そして、薄汚い辺境の地に誘導したのも敵宗門をはじめとする敵一味の仕業であったことがわかった。
この発覚は、敵一味のこれまでの運命操作を根底から揺るがす内容のものであった。

鉄道趣味の破却、そして宗門脱退へ

この見直しの部分的結果を受けて、鉄道趣味の破却が決定した。
これにより、私は2002年以来敵にやらされていたサイトを11月13日を以って閉鎖した。
その前、私は伊藤にグッズ売却に協力するように迫ったが、伊藤は応じなかった。
恐らく宗門のどこかから連絡が行っていて、応じないようにと指示されていたのだ。
このことは、伊藤個人に留まらず法華講というものに対する心象を決定的に悪くした。

本来ならば、ここでカメラ機材に手を出す必要は無い。
鉄道云々とは関係なく、将来に亘り長期的に運用する前提で購入したのであって、鉄道が無くても別のことに活用すればいい。
しかし、敵一味は鉄道趣味破却の決定特に遠隔洗脳によってやらせていたサイトを破却されたことに逆上していた。
ここに敵一味は、機材の売却を再び強要してきたのだ。
しかも、宗門の節目などというものに託けてである。
こうして、折角の機材は破壊され、ミラーレスへの転換を強要されたのであった。
こんなことは、遠隔洗脳によってでなければ起こり得ない。
宗門に対する見直しの途上でこのような事件が惹き起こされたことこそが、BMIつまり遠隔洗脳犯罪の行為者が宗門側である何よりの証左だ。

それと同時に、敵一味はまだ何も決定していなかった対宗門問題に対して、理論も何も無しで「継続しろ」という結論だけを押し付けてきたのだ。
しかし、さすがにこれは違和感たっぷりであり、程無く破られることとなる。
理論も何もなしで押し付けてくるというのは、尤もらしい理由をねじ込むのが得意な敵一味にしてはらしくない話であり、そのことが敵一味特に敵宗門の慌てぶりを象徴するものであったと今にしてみれば思うのである。
つまり、敵一味にとって私の脱退という最悪の事態が、まさに現実の問題として突きつけられる事態になっていたということをそれは意味していたのである。

宗門からの脱退

鉄道趣味の破却後なおも私は見直しを続け、宗門問題に対する結論を模索していた。
そして私は、それまで使っていた携帯電話を破却し、一新することにした。
つまり、それは法悦院と、しいては日蓮正宗宗門との決別を事実上決定していたことに他ならない。

そして年が明けて2015年の1月。
敵一味はなおも宗教活動の一部である「勤行」を私に強要して、続けさせていた。
身分上はまだ法華講員であったということもあって、それをやめる事がなかなか出来なかったのが実情でもある。何しろ世界一強迫的観念を植え付けるのが得意な宗派の教義だけに、一時でもそれを停止することが極めて難しかったのもある。
しかし、見直しの発端自体が日蓮正宗自身の謳う「現証」という面からの疑問であったこともあり、脱退の決断はさほど難しいものではなかった。

かくして2015年1月10日朝のことであった。
私は、ついに日蓮正宗そのものから脱退するという大きな決断をするに至り、強要させられていた「勤行」という宗教活動を返上し、ここに敵一味が作り上げてきた「信心の化城」は完膚なき崩壊を遂げたのである。

2003年9月7日以来、約11年強にも亘って強いられてきた法華講員としての日々。
それが、何の意味も持たないどころか却って不幸の元凶にまでもなっていたと、私は判断したのである。

その後の紆余曲折については次稿以降で明らかにしていくが、一家においてはこの2015年1月10日を日蓮正宗からの脱退の日であると決しており、故に後年の信徒籍抹消要求にも「2015年1月10日を以って脱退したため」とはっきりと明記しているのである。

こうして、漸くにして日蓮正宗をはじめとする敵一味との関係を、形の上では切り離したことになる。
しかし、敵一味特に敵宗門がこれを黙って見ていようはずも無く、この後私は執拗な離壇妨害工作にさらされる事になるのであった。