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自動車利権について 第2幕

二つ前の記事で自動車利権について触れているが、はっきり言って内容がまだまだ足りなかったと存ずる。
そこで本稿では前稿で書けなかったことを中心に綴る。

まずで以って自動車利権の続き
自動車メーカーは税金を殆ど払っていない。
つまりクルマを買っても経済には殆ど貢献しないのだ。
自動車メーカーが税金を払っていない理由は、主たる商売相手が国外である点に起因している。
つまり一部で問題にされている「輸出戻し税」である。
その一方でメーカーは下請けに無茶振りして部品を安く買い叩き、以ってぼろ儲けしている有様だから開いた口が塞がらない。
そして自動車利権はカネの力でメディアを抑えているから都合の悪い事件や事実は決して報道されないし少しでも都合の悪い事項は封印され製品(クルマ)の瑕疵のせいで事故になってしまった人が不当逮捕され叩かれる有様である。アレは自動車利権を守るために無力のドライバーをスケープゴートにしてそこへ矛先を逸らさせているのである。

クルマ社会の弊害

クルマ社会は分断と対立の社会であり、相対的価値観の社会であるといえる。
つまりキリスト教的価値観の社会である。
キリスト教的価値観の社会が総てクルマ社会であるとは限らないが、クルマ社会は個に分断される社会なのでクルマ社会はキリスト教的価値観の社会であるといえる。

ここで少しおさらいをしよう。
クルマ社会は偽天皇(キリスト教支配層の手先)の命令である。
つまりこれは経済面でのNWOと大いに関係がある。
以前にも書いたが、郊外型ショッピングセンターである。
アレはまずクルマで無ければ行けないような所に作られる(一部例外もある)。
大抵は駅や市街地から離れたところに作られていることが、少し考えればわかるだろう。
駅や市街地はかつてコミュニティの中核をなすところであり地域における商業の中心地だった。
NWO勢力はコミュニティを破壊し民衆を分断するために地域の商業を破壊して手先のNWO企業に収奪させたということだろう。

駅から遠く公共交通では行きづらいところにあるのはショッピングセンターだけではない。
それはずばり、職場つまり事業所である。
車で無ければいけないようなところにある事業所が多すぎる。
バスが出ていればまだしも、バスすらないケースも非常に多いのだ。
公共交通を衰退させることが耶蘇支配層つまり天皇や官僚の意向であることは明らかである。
しかし、それはメディアスレーブの民衆がクルマ社会を選んでしまったことによって生じているのだ。
メディアスレーブどもがメディアに踊らされて車に手を出さなければ公共交通の衰退は起きなかったのだ。
いずれにせよ車で無ければ通えないように設定している時点で悪質であり、立派にブラック企業であるといわなければならない。

また、宗教の中には意図的に公共交通ではたどり着けないようなところに寺院や教会を置いている宗派がある。
総本山でも電車で行ける宗派がある一方、末寺を意図して辺鄙なところに置いている伝統偽装カルト宗教がある。
そのような宗派は自動車利権の太鼓持ちだから信仰するに値しない。
しかもカネを叩かなければたどり着けない(始発のバスでも間に合わない)ような時間に御講を設定するなどする悪質な寺院もある。
それは信心を試しているとは言わないし、悪質な経済破壊行為だろう。

相対的価値観という観点から言うと、クルマを持つ者と持たざる者の間に格差を生むのがクルマ社会だ。
更に、高い車と安い車、新車と古ぼけた車の間でも格差が生じる。
そしてそれを比べさせて劣等感を煽る構造になっているのである。
劣等感というものはそもそもが安易に他者と比べる相対的価値観から生じるものである。
相対的価値観はキリスト教的価値観のものであり、無用の対抗心と対立を生み出すものである。
クルマ社会にしがみつかされている大きな原因が相対的価値観であることは既に書いたが、明治以降の日本社会はキリスト教的価値観に起因する相対的価値観に毒されていて、その毒が民衆にも深く汚染している。
まずキリスト教的価値観と相対的価値観を捨てなければ変わらないのである。

支配層の手先は雑誌などでクルマを「男女交際に欠かせないもの」として煽り立て、クルマを持たない男など論外であるという煽りによって車を恋愛の道具として持たせようとしており、女性誌でもそのように吹き込んでこれに毒されたメディアスレーブ女どもがクルマを持っていない男を見下ろすなどするようになったため男女分断の大きな原因となっている。
ツイッターでも書いたが、支配層の狙いは男女の分断でありそれはキリスト教的価値観に基くものだ。
このことに全く触れないさゆふらはキリスト教支配勢力側の人間だから信用してはならない。
陰謀論者どもがたれている「支配層の狙いはフリーセックス」は全くの大嘘であり、むしろその真逆なのである。

弊害はまだある。
また、高齢者が車を運転せざるを得ない状況に追い込むのがクルマ社会の毒であるが、メディアはこの点には一切触れない。自動車利権にとって都合が悪いからである。
クルマ社会は高齢者が運転をしなくても済むような社会作りを妨げているのである。
クルマ社会はコミュニティを破壊し、民衆をきわめて小さい単位に分断する。
だから助け合いもしないし他人のことは知らん振りになるのは当然の帰結なのである。
これはキリスト教的価値観とクルマ社会両方の弊害である。
クルマ社会はキリスト教的価値観に民衆を固定する役割を担っていると考えることが出来るといえる。
民衆が出来ることはクルマ社会を捨てて公共交通と地域コミュニティに回帰することである。
つまりクルマ特に自家用車こそが「買ってはいけない」物の代表格であるといえるのである。
仕事で使うならまだしも、マイカーなど庶民の買うものではない。

まずは民衆が自ら進んで公共交通に回帰するべきなのであり、それがクルマ社会にNOを突きつけることにもなるのである。
この際利便性だとかスピードだとかは捨てるべきだろう。

筆者のクルマに関する考え方について

筆者はクルマに関して以下のように考えている。
クルマは収奪装置であり、それを趣味にするなどとんでもないことである。
従って、敵一味の影響による例外を除き世紀が変わって以降は車を保有していないし今後も保有するつもりは無い。
公共交通が無い場合は自転車やバイクで対応できる範囲で行うものとし、クルマの保有は止むに止まれない場合だけにするべきである。仕事などでクルマを使わなくてはならない場合は、利権業者にカネを払わないようにして自分で点検するようにし、今ある車両を長く使い続けるようにするべきである。勿論、次から次へ買い換えるなどもっての外である。
突発的な需要は大抵タクシーかレンタカーで対応できるので、それらを使うべきである。大型荷物は配送してもらえばいい。車でないと運べないようなものをひっきりなしに買っていること自体が異常であるといえる。
買い物や保育園の送り迎えは自転車で対応できるケースが殆どだし、実際に多く見かける。車ありきで考えるべきではない。
したがって、買い物はクルマを保有する理由にはならない。
通学は公共交通と自転車で賄わせるべきであり、送迎などとんでもない話である。
車での送り迎えなど子供を悪しく増長させるだけである。
クルマが無くても、速さや利便性を捨てれば十二分に対応は出来る。
居住地の選定に当たっては公共交通の充実度を重要視し、極度のクルマ社会になっているような地は選定しないものとする。
クルマの保有の有無(特にクルマを持っていないこと)で人を判断するなどもってのほかであり、そのような輩は厭離するべきである。

交通に関する筆者の現在の状況について

筆者は現在クルマもバイクも持っていないが、それで生活が回らないということはないし買い物は自転車で何とかなっている。雨は天気予報などで予めある程度想定できるので、それを見越して行動していれば雨の中買い物に行くことにはならない。
晴天限定ではあるが10キロ程度であれば自転車で足を伸ばせるので、急ぎでなければその程度の距離は自転車である。その点では比較的平坦なこの地の地形は有利ではある。隣のC県ではそうはいかない。
筆者はタクシーの福祉券が貰える資格者なので年に一冊(数十枚)の福祉券が貰え、この福祉券で初乗り運賃分が賄える。主に雨天時や重い荷物のあるときに福祉券でタクシーに乗っている。使用は1回1枚限りで、障害者割引を適用してなお初乗り運賃相当額を超える差額は現金で支払うことになる。

終わり

カテゴリー:クルマ・バイク, 真実追究(各論)
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