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「ためにする」輩について その2

東大地震研の出したとされる「予測」はやはり胡散臭いものだったようだ
何しろこの東大地震研とやらこそが地震研究の正しい発展を妨げてきた張本人だという
しかも、予測するに足るデータなど持っていないとの推定まである
つまり、先日の「予測記事」も所詮は権力3兄弟による「煽り・脅し・プロパガンダ」の領域を出ないものに過ぎなかったことになる
たとえ近日中にそれが来たとしてもだ
予測自体がでたらめなのだから、それが的中しようがしまいが正当化するに足らない戯論に過ぎないということである
地震に対する対策・心構えは常に必要なものなのだから、このような煽動に惑わされず常に一定の準備と警戒をしていればいい
日本における地震研究は東京大学の独壇場である
(BLOGOS:ガジェット通信)
二重の社会主義の一大構造である「学閥」の弊害が正当な研究を妨げ、東日本大震災における被害をとてつもなく大きなものにしたとしか言いようがない
まさしく、この国で「ためにする」人生を送る、或いは「ためにする」事に慣れ切っている輩が大半であることをもこの事は示しているといえる

「ためにする」輩は、その性質からそのほとんどがメディアスレーブであるとも言えるし、操る側、操られる側の双方が「ためにする」人生を送り、或いは「ためにする」事に慣れきってしまったその結果が今日の閉塞した社会を招いているといえるのである
その意味では筆者と敵対してきた連中などもまさしく「ためにする」人生を送り、或いは「ためにする」事に慣れ切っている輩であると言える(この件については後日一家ISのほうで取り上げる)し、筆者もそのような輩であると気づかずに他人に期待をしてしまってきた事が今日の状況を招いてしまったともいえる

このような社会、このような輩が蔓延する現代
その中で抱いた期待がことごとく期待外れに終わってしまったのも、ある意味当然のことであると言えよう
その意味でも、「失われた26年間」は、無かった事にしてもらいたい
そもそもが出会わなければよかったものばかりなのだから
「所詮は、そういう連中だったのか」
そこにあるのは、落胆と幻滅がすべてである
今後は、そのことを前提にして総てに対してゆかねばならないという事であろう
なお、私は基本的に「ためにする」ような考え方は無いが、私に対して「ためにする」行為で主権を侵さんとする輩に対してはそれ相応の対処をするのでくれぐれもお間違いの無いように

カテゴリー:「新天地からの手紙」からの編入記事
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