投稿者「パントルセレブル」のアーカイブ

Disgusting Creatures

アベルフが政権を簒奪したあの忌まわしき不正選挙から5年。
またしても茶番は繰り返された。
結果の程はほぼ想定どおりであり、幾分ましかもしれない程度で終わっている。
それでも支配層どもにとっては必ずしも納得のいく結果ではなかったようではあるが。
まともな選挙だったら自公は惨敗していたところだろうな。

5年前の当時に書いた「最悪の結果を目の当たりにして」の当時には不正選挙というものがわかっていなかった節があった。
いまや不正選挙はこの界隈ではもはや常識となっているが、メディアスレーブどもの盲目が開けるには到底程遠い現状については当時の認識も間違ってはいなかった。

私はあれ以来選挙などという茶番には参加していない。
選挙で体制は変えられないからである。
選挙に参加した時点で、反体制ではないのである。
体制を変えるには、体制を構成する組織を悉く叩き潰す必要があるのだ。

真実の追究が再点火してから3年余りが経った。
その間様々なことを暴いてきたのであるが、今回はあえて不正選挙と愚民に焦点を当てて展開する。

まず第一に、この国の選挙システムは不正を働くことが前提であり、愚民に「自分で決めている」と錯覚させるためのものであるということである。
前から指摘しているとおり、この国は民主主義国家ではなく、企業社会主義と官僚社会主義という「二重の社会主義」に支配されている国家であり、これを偽天・米帝連合が牛耳っているのである。
民主主義を偽装するのに重要なツールが無記名による秘密選挙なのであり、支配層が絶対に変えさせないのが秘密選挙なのである。
このシステムでは投票してしまったら最後、悪魔の契約を結ばされることになる。
ネトウヨどもはやたら9条を変えさせたがっているようであるが、これは支配層の意向そのまんまである。
ここで大事なのは、支配層は9条を変えさせて秘密選挙を絶対に変えさせない意向であるということである。
この秘密選挙の枠組みの中で行われる限り、投票者は支配層の手のひらで弄ばれるのみであり決して社会を変えることはできないということである。
つまり入れた時点で奴らに従わされる定めなのであり負けなのだということである。
何故投票所では鉛筆が使われるのか?
それは鉛筆でないと不正が出来ないからであり、無記名の秘密選挙になっているのも同じ理由である。
鉛筆で書いたものなど磁気的な仕掛けでいくらでも改ざんが利くのである。そういう機械が使われている、そういうことである。
もしサインペンやボールペンで投票者記載で行おうものなら支配層の意図通りに改ざんすることなどできないからなのである。
無記名ということはブラックボックスであるということでもあり、これまたいくらでもイカサマが利くということなのである。
なお、一部の陰謀論者は某宗教団体が偽票書きをしていたと主張しているが、それは既に過去のやり方と化しているであろう。陰謀論者は支配層の手先であり、陰謀論者の役割は真実追究者に対する騙しとミスリードであるから、奴等が出してくる時点で既に支配層にとっては痛くも痒くもない情報であり、既に何年も前に終わっていたはずである。そうでなければあのような情報は出せないはずである。

第二に、そのイカサマでしかない選挙システムをこの国の愚民が盲信してきたということである。
恐らく、不正選挙は最近に始まった話ではない。
というのはその中核である「ムサシ」は最近になってできた会社ではないからである。もう一つの中核は総務省であり、これも省庁改編でも変わることの無かった古い官僚組織である。ということは、遠く55年体制ができた選挙から既に不正選挙であった、そして偽票書きは当時の手口であったというのが私の見立てである。
55年当時というのは丁度テレビなるものが出現し始めた時期である。
当時は「テレビを見ると馬鹿になる」と民衆の間でも言われてきた。


それが70年経った現在はほとんどがメディアスレーブに成り下がり、このような体たらくである。
しかし、これは戦前に既に画策されていたことなのではないか。
というのは、大戦を前に時間にルーズだった民衆に「勤勉」を教え込むキャンペーンが行われものの見事に目論見どおり時間通りに動く歯車化しているからである。
これが戦後の社畜化にも大いに貢献しているのである。
これとテレビの普及そしてメディアのスピンコントロールによって愚民、メディアスレーブは生み出されてきたということである。
メディアと教育は繋がってないようで裏で繋がっている。そして教育は肝心なことを何も教えずに支配層にとって都合のよい駒になるよう「教育」しているのである。
そして、点と点を結んで考えさせないようにスピンするためのものを企業とメディアが流布するのである。それが流行りモノの正体である。
そのような支配層とメディア、そしてカルトなどこれに連なる連中にとって都合が悪いのが、昔を知っている人間ということになる。老人福祉のドラスティックな改悪などの老人いじめは、昔を知っている者を口封じするためなのである。

いずれにしても、55年体制以降の政治というものはすべてが体制側によるイカサマであり、メディアとグルになって民衆を愚弄してきたのが現在の自公・企業社会主義体制なのである。09年の政権交代でさえ、自公が責任逃れをするために敢えて下野する「振りだけ」したのである。そして下野中に人工災害を惹き起こし、「下野中」であるのをいいことに当時の民主党に責任を押し付け、そして不正選挙で政権を簒奪したということなのである。3・11は世界支配層によって予め予定されていたものであり、そのときには自公は下野中である必要があった、そういうことである。

云うまでもなくメディアの流す情報はウソとスピンに満ち溢れているものである。
メディアの流すウソの価値観に毒された愚民はもはや支配層とグルになってこの国を毒し続ける有害な存在でしかなく、忌まわしい生物(Disgusting Creatures)でしかない。
斯様な愚民が9割である以上関東で儚い夢を追い求めても意味はなく、そこは厳しくやるということになる。
したがって過去の忌まわしい連中も全て愚民であることに例外は無かろう、そのような輩など最早惜しくもないし忌まわしい過去は投げ捨てさし措くべきなのである。

前回記事にも書いたとおり、本当の投票は毎日の買い物、毎日の生活の中にこそある。何故ならこの国は民主主義に偽装した社会主義国家だからであり、その主体が企業社会主義勢力にあるからである。
愚民が何の抵抗もせずに盲従するさま、その足元を見ているからなのか、企業社会主義勢力は事もあろうにシュリンクフレーションなる手口を使い裏でこっそり内容量を減らして小売店も消費者がそれに気付けないようなやり口で協力してともに暴利を貪っている有様である。要するにこれがアベノミクスの正体なのである。
先ずは暴利を貪る企業どもを悉くぶっ潰さなければならないのであり、その意味でも日々の生活、日々の買い物が重要なたたかいの場となるのである。

前の記事にも書いたことだが、企業社会主義の支配下である今日においては企業こそが民衆にとって直接の支配者であり、解放を勝ち取るためにはそれを潰さなければならない。システムを止めなければならないのである。
そのためには支配層に餌を与えないことである。
現在において民衆は実に多くの不用品を買わされている。
これによって支配層は不当に民衆から搾取収奪を行い、その力を削いでいるというわけなのである。
このあたりについては前の記事「毎日の買い物が本当の投票だ」に書いているとおりである。
余計なドリンク類に始まり余計な趣味ごと、余計なレジャー、余計な流行りモノなど全てが支配層による収奪のツールであるということである。
つまり「×買っている⇒買わされている⇒買うな!」ということである。
同じように、「×出かけている⇒出させられている⇒出るな!」なのである。
つまり、自分の考えで買ったり出かけているようでもそれは実は自分の考えによるものではなく、支配層の手先による誘導もしくは洗脳操作によって強制されているのであり、させられているものなのだということである。
この「○○している⇒○○させられている⇒○○するな!」はわが一家が誇る最強ロジックであり、これによって多くの無駄遣いやハタカセを防いできたものである。このロジックに当てはめて考えれば、必ずや多くの無駄をシャットアウトできるであろうこと請け合いである。ゆえに敵一味にとってはこれがたまらなく都合が悪く、何度も朝礼ごと押し流そうとしてきたものでもある。その敵一味はこれまでにも書いてきたとおり支配層の手先であり、支配層の一部でもある。
今もメディアは多くのウソにまみれた情報を垂れ流し、民衆を愚弄して収奪を行い力を削いでいるのである。その意味では選挙もまた収奪のツールであり、民衆の力を削いでシープル(愚民やメディアスレーブの海外における名称)にするためのものなのである。そのような愚弄のためのツールは全て全蹴りにするべきなのである。全蹴り以外に選択肢は無いのである。
以前にも書いたことだが支配層やその手先はシステムが止まって貰っては困る、民衆からの収奪と騙しを生業とする伝統偽装カルトも同じなのである。
奴等は、日々の生活が行き詰っては困るという愚民の目先だけの考えに乗じてシステムをまわし続けのさばっているのであるからシステムを止めて潰さなければ未来は無いのである。

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毎日の買い物が本当の投票だ

既に砦ブログでは触れている話だが、冒頭の言葉を知った動画をまず見てもらおう。

買ってはいけない/Meiso

企業社会主義が支配するこの国の現状に照らし合わせればまさに言っているとおりなわけで、選挙の投票など錯覚システムに過ぎず国会はお飾りに過ぎないこと、アベルフですらパペットに過ぎないことを併せて合点がいった訳である。

企業社会主義の支配下である今日においては企業こそが民衆にとって直接の支配者であり、解放を勝ち取るためにはそれを潰さなければならない。
そのためには支配層に餌を与えないことである。
現在において民衆は実に多くの不用品を買わされている。
これによって支配層は不当に民衆から搾取収奪を行い、その力を削いでいるというわけだ。

私は三度に亘って自動車利権について書いたが、その自動車も不用品であるしその先にある趣味やレジャーの類も不要不急品であり収奪の手段であり、そしてその目的地の多くが支配勢力の利益に繋がっているのである。

このツイートに書いた通り不倶戴天の敵の一つである創価学会は主に傘下企業によって企業社会主義の主力となっている。その創価は日蓮正宗の別働部隊・系列カルトであり、日蓮正宗の手先であるとも言える。その日蓮正宗はキリスト教勢力の手先であり、偽天皇の手先でもあるのだ。そしてこれらカルトが、日本の主たる企業に入り込んで企業をカルト化させているのである。

物を買うことの意味

物を買うことは、すなわちそれを売っている店やそれを作っている企業に一票を投じるのと同じことである。
また、この概念において買い物とはただ単に物を買うことのみを意味するものではなく、カネを出して対価を受ける全てのものが買い物であるといえるのだ。移動を買うことも有償でサービスを受けることも全てがこれに該当する。
企業社会主義の今日においては毎日の買い物が本当の投票であり、このことを厳格に考えて行動しなければならない。

たとえば主だったところでは電気を使うことも対価を払って電気を買っているのであり、れっきとした買い物であるというべきだろう。ガスや水道、交通サービスも同じであり、交通機関を使うことでさえ、カネを払って移動を買っているということなのである。

更に言うならば、企業に勤めることもその企業に一票を投じているのと同じだ。企業に勤めることによって客にカネを払わせている=一票を投じさせているのと同じだからだ。
そしてその出したカネがこれら企業社会主義の構成員どもを維持することになるし、カネを出すことはその企業を支持することと同じになる。そのカネが回りまわって広告代理店やカルト宗教さらには再エネ利権や原発マフィアを潤すことになるのである。
テレビはエアコン以上に多大な電力を消費する。すると原発利権や再エネ利権の一員である電力会社が潤う。そしてそのカネが広告費として回りまわってメディアや広告代理店を潤し、ますますテレビなどのメディアがのさばる原因を作っているのだ。
従って、我々はカネを出して何かを買うという行為に対して厳格に考えて行動し不要なものを買わされないようにする必要があるのだ。敵一味が私に対して使う、「必要を創造する」という手口をメディアや広告代理店は広く民衆に対して使っているということである。「創造された必要」を見抜きそれに騙されたり踊らされないようにしなければならない。

冒頭にも書いたとおり、政治も国会もただのお飾りであり本当の権力はそんなところには無い。そして選挙の投票も奴隷たちが自分で決めていると錯覚させるためのからくりに過ぎない。支配層の手先であるメディアが殊更にこれらのお飾りを煽りたて選挙に行けと叫ぶのは、本当の投票である消費行為に目を向けさせずに企業社会主義勢力を支持させ続けるためでもあるのだ。
与党も野党も皆用意されたものであり、全てグルである。そしてメディアの操作による左右プロレスが平然と罷り通っているが、そんなところに支配層のアキレス腱は無い。
この国を牛耳っているのは企業・官僚・偽天であり、これらは皆キリスト教勢力の手先でもある。企業カルトも宗教カルトも殆どがキリスト教勢力の手先である。
奴らにとって一番困るのは、今の経済システムが回らなくなることなのである。
今の経済システムは、企業社会主義勢力がグルになって民衆を騙し不要不急で無駄なものをたくさん買わせる事によって成り立っている。したがって、無駄を省かれては困るのが支配勢力どもなのである。
翻って今の社会を変えるには、今のシステムを一度止める必要があるのである。
少なくとも煽られるままにあれこれ買っているようでは変革はおぼつかないのである。

ニホンジンにはセラヴィが足りない


ニホンジンがいとも簡単に広告代理店や悪徳企業の悪宣伝に乗せられてしまう原因として、ニホンジンには自分に必要なものはここまで、不要なものは買わないという信念が著しく欠如していることがある。煽る側もそれを知ってやっているので、力関係が一方的になり企業社会主義が一方的に搾取し続ける構図になってしまっている。
あらぬ夢や幻想を見せてそれで縛り、強迫観念を植え付けて企業社会主義の奴隷に成り下がらせ、成功例だけを見せリスクを教えずに妄信させるのが奴らのやり方だ。
夢に駆られていると、物事の善悪を判断する力が薄れる。 人殺しのような事に手を出してまで教祖様の夢を見続けるカルト員、宗勢拡大の夢のために平気で他者を罵り続け終いには邪魔者を糖質呼ばわりする某宗教の講員、「いい学校、いい会社」という夢の為にしなくていい借金に手を出す人、趣味ごとのために自己中心的になり他人ともめるような事をする人(鉄ヲタのトラブルがいい例)も、そのいい例であり夢に入りすぎて善悪を失った姿であるといえる。
そもそも支配勢力とは民衆にあらぬ夢や幻想を見せ続けて都合の悪い現実を見せないようにしているのであるから端から疑ってかかるべきである。

では民衆は最初からそのようなセラヴィを持ち合わせていなかったのか?
答えはNOである。
あらぬ夢や幻想を、それも超大型のそれを見せられてしまったがために感覚が麻痺してしまい忘れ去らされてしまったのである。
セラヴィは主に経験値から生み出されるものである。
それを吹き飛ばし民衆を洗脳するための装置として開発されたものがある。
それがテレビである。
この世にそれが登場してから、まだ60年ほどしか経っていないが、しかしこの悪魔の装置はそれまでの経験値という貴重な積み重ねを意図も簡単に吹き飛ばしてしまったのだ。
敵が失わせるのは簡単だが、失われたセラヴィを取り戻すのは大変な時間と労力を要する。
セラヴィを構築するには、まず自分の身の丈を弁えることが必要である。
そして背伸びをしないこと、ありのままの自分を受け入れることである。
何よりも必要なことは、夢や幻想から脱却して現実に立ち返ることである。
その上で自身の経験を振り返っていく中で、私は私なりのセラヴィを作り上げてきたのである。
企業社会主義やカルト宗教は信念を持つことを極端に嫌う。
何故か?信念を持っていると自分らの思うとおりに操って搾取収奪することが出来ないからである。
そのことはかつてカルト宗門の悪徳法主日如があからさまに「信念は不要である」と説法でのたまっていたことによく現れている。奴らは、信者に自分の人生の手綱を自分で握らせたくないのである。それは傘下のカルト集団や企業カルトなども同じである。
逆説的に言えば、信念を持つことによって不当な搾取収奪を、ある程度は防ぐことが出来る。
だから私は言うのだ、信念を持てと。
メディアスレーブとは、信念を持たずにメディアの奴隷に成り下がっている人間のことを指す言葉である。

実践について

冒頭に書いたように政治も国会もお飾りであり、それを叩いても本当に実権を握っている連中は痛くも痒くもない。
たとえアベルフを引き摺り下ろしたとしても、次のパペットが出てくるだけだ。
奴らが恐れているのはシステムが止まることであり、民衆が余計なカネを出さなくなることである。
何故なら奴らは民衆から搾取した「余計なカネ」で成り立っているからであり、デモも運動も奴らを止めることは出来ない。
民衆が出した余計なカネが、奴等に権力を持たせているも同じなのである。
奴らを止めるには悪質企業の商品を買わないこと、悪質企業で商品を買わないことしかないのである。
だからこそ不要なものを買わない、不要な移動をしないことが肝要なのである。
不要な移動の先にあるものは不要なレジャーや不要な物品であることが殆どであり、不要なレジャーを切れば不要な移動も同時に切れるのである。
それらを買うことは企業社会主義に一票を投じることになるのであり、商業主義がどうして好かれたいかというのはカネしかないのである。一票を投じさせたいのである。そのために手先のメディアはこれでもかと夢や幻想を見せ続けて消費を煽るのである。無論それにはあらゆる真実から目を逸らさせたいというのも目的としてあるのであるが。
悪質企業に一票を投じさせられないにはどうしたらいいか?それは必要なものであれば買う店を選びどこの作った商品を買うか選ぶことである。そこで売国企業やカルト企業を排除するのだ。売国企業等の商品を買わない、売国企業等で商品を買わないということだ。
カルト企業や向こう側の企業、或いは食べて応援系企業、或いは買ってはいけない商品についての情報は、その選別をするために必要なものである。支配層はそれを隠蔽することで成り立っているというべきであり、そのような情報を民衆は自分で探して商品を選別し、不用品を排除しなければならないのだ。それをしようともせず言われることを鵜呑みにして何も考えずに消費生活に浸かるのはメディアスレーブの所業である。

趣味ごとに対する考え方

これは、当サイトの固定コンテンツに私が書いたものを抜粋したものである。
趣味ごとは人間としての文化的生活に必要なものではあるが、度を過ぎて深みに嵌ると人生を狂わせる大きな原因にもなりえるものであり、深入りしすぎないように適正な規制が必要である。
趣味レジャー雑誌や御用サイトの類は総じて思考停止、脳内お花畑に民衆を陥れるためのNWO支配勢力の陰謀であり、煽りとハタカセ、資産簒奪のためのツールであるからそのようなものに頼らないようにして、対象を限定するなどして深みに嵌ることを防がなければならない。
また、趣味ごとの対象の中には権力者、支配層の都合と思惑によって捏造されたものが必ず存在するからそのようなものを見抜き、そのようなものは対象としてはならない。
趣味ごとに使うツール或いはグッズはあまり売り買いしないようにして、ひとつのものを長く使い続けるようにするべきであり、支配側が煽るような流行やトレンドなどには踊らされないようにしなくてはならない。また、趣味ごとによる所有物は必要最低限に抑制し、浪費を防がなければならない。

民衆の命運は、我々の実践にかかっているのだ。

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自動車利権について 第2幕

二つ前の記事で自動車利権について触れているが、はっきり言って内容がまだまだ足りなかったと存ずる。
そこで本稿では前稿で書けなかったことを中心に綴る。

まずで以って自動車利権の続き
自動車メーカーは税金を殆ど払っていない。
つまりクルマを買っても経済には殆ど貢献しないのだ。
自動車メーカーが税金を払っていない理由は、主たる商売相手が国外である点に起因している。
つまり一部で問題にされている「輸出戻し税」である。
その一方でメーカーは下請けに無茶振りして部品を安く買い叩き、以ってぼろ儲けしている有様だから開いた口が塞がらない。
そして自動車利権はカネの力でメディアを抑えているから都合の悪い事件や事実は決して報道されないし少しでも都合の悪い事項は封印され製品(クルマ)の瑕疵のせいで事故になってしまった人が不当逮捕され叩かれる有様である。アレは自動車利権を守るために無力のドライバーをスケープゴートにしてそこへ矛先を逸らさせているのである。

クルマ社会の弊害

クルマ社会は分断と対立の社会であり、相対的価値観の社会であるといえる。
つまりキリスト教的価値観の社会である。
キリスト教的価値観の社会が総てクルマ社会であるとは限らないが、クルマ社会は個に分断される社会なのでクルマ社会はキリスト教的価値観の社会であるといえる。

ここで少しおさらいをしよう。
クルマ社会は偽天皇(キリスト教支配層の手先)の命令である。
つまりこれは経済面でのNWOと大いに関係がある。
以前にも書いたが、郊外型ショッピングセンターである。
アレはまずクルマで無ければ行けないような所に作られる(一部例外もある)。
大抵は駅や市街地から離れたところに作られていることが、少し考えればわかるだろう。
駅や市街地はかつてコミュニティの中核をなすところであり地域における商業の中心地だった。
NWO勢力はコミュニティを破壊し民衆を分断するために地域の商業を破壊して手先のNWO企業に収奪させたということだろう。

駅から遠く公共交通では行きづらいところにあるのはショッピングセンターだけではない。
それはずばり、職場つまり事業所である。
車で無ければいけないようなところにある事業所が多すぎる。
バスが出ていればまだしも、バスすらないケースも非常に多いのだ。
公共交通を衰退させることが耶蘇支配層つまり天皇や官僚の意向であることは明らかである。
しかし、それはメディアスレーブの民衆がクルマ社会を選んでしまったことによって生じているのだ。
メディアスレーブどもがメディアに踊らされて車に手を出さなければ公共交通の衰退は起きなかったのだ。
いずれにせよ車で無ければ通えないように設定している時点で悪質であり、立派にブラック企業であるといわなければならない。

また、宗教の中には意図的に公共交通ではたどり着けないようなところに寺院や教会を置いている宗派がある。
総本山でも電車で行ける宗派がある一方、末寺を意図して辺鄙なところに置いている伝統偽装カルト宗教がある。
そのような宗派は自動車利権の太鼓持ちだから信仰するに値しない。
しかもカネを叩かなければたどり着けない(始発のバスでも間に合わない)ような時間に御講を設定するなどする悪質な寺院もある。
それは信心を試しているとは言わないし、悪質な経済破壊行為だろう。

相対的価値観という観点から言うと、クルマを持つ者と持たざる者の間に格差を生むのがクルマ社会だ。
更に、高い車と安い車、新車と古ぼけた車の間でも格差が生じる。
そしてそれを比べさせて劣等感を煽る構造になっているのである。
劣等感というものはそもそもが安易に他者と比べる相対的価値観から生じるものである。
相対的価値観はキリスト教的価値観のものであり、無用の対抗心と対立を生み出すものである。
クルマ社会にしがみつかされている大きな原因が相対的価値観であることは既に書いたが、明治以降の日本社会はキリスト教的価値観に起因する相対的価値観に毒されていて、その毒が民衆にも深く汚染している。
まずキリスト教的価値観と相対的価値観を捨てなければ変わらないのである。

支配層の手先は雑誌などでクルマを「男女交際に欠かせないもの」として煽り立て、クルマを持たない男など論外であるという煽りによって車を恋愛の道具として持たせようとしており、女性誌でもそのように吹き込んでこれに毒されたメディアスレーブ女どもがクルマを持っていない男を見下ろすなどするようになったため男女分断の大きな原因となっている。
ツイッターでも書いたが、支配層の狙いは男女の分断でありそれはキリスト教的価値観に基くものだ。
このことに全く触れないさゆふらはキリスト教支配勢力側の人間だから信用してはならない。
陰謀論者どもがたれている「支配層の狙いはフリーセックス」は全くの大嘘であり、むしろその真逆なのである。

弊害はまだある。
また、高齢者が車を運転せざるを得ない状況に追い込むのがクルマ社会の毒であるが、メディアはこの点には一切触れない。自動車利権にとって都合が悪いからである。
クルマ社会は高齢者が運転をしなくても済むような社会作りを妨げているのである。
クルマ社会はコミュニティを破壊し、民衆をきわめて小さい単位に分断する。
だから助け合いもしないし他人のことは知らん振りになるのは当然の帰結なのである。
これはキリスト教的価値観とクルマ社会両方の弊害である。
クルマ社会はキリスト教的価値観に民衆を固定する役割を担っていると考えることが出来るといえる。
民衆が出来ることはクルマ社会を捨てて公共交通と地域コミュニティに回帰することである。
つまりクルマ特に自家用車こそが「買ってはいけない」物の代表格であるといえるのである。
仕事で使うならまだしも、マイカーなど庶民の買うものではない。

まずは民衆が自ら進んで公共交通に回帰するべきなのであり、それがクルマ社会にNOを突きつけることにもなるのである。
この際利便性だとかスピードだとかは捨てるべきだろう。

筆者のクルマに関する考え方について

筆者はクルマに関して以下のように考えている。
クルマは収奪装置であり、それを趣味にするなどとんでもないことである。
従って、敵一味の影響による例外を除き世紀が変わって以降は車を保有していないし今後も保有するつもりは無い。
公共交通が無い場合は自転車やバイクで対応できる範囲で行うものとし、クルマの保有は止むに止まれない場合だけにするべきである。仕事などでクルマを使わなくてはならない場合は、利権業者にカネを払わないようにして自分で点検するようにし、今ある車両を長く使い続けるようにするべきである。勿論、次から次へ買い換えるなどもっての外である。
突発的な需要は大抵タクシーかレンタカーで対応できるので、それらを使うべきである。大型荷物は配送してもらえばいい。車でないと運べないようなものをひっきりなしに買っていること自体が異常であるといえる。
買い物や保育園の送り迎えは自転車で対応できるケースが殆どだし、実際に多く見かける。車ありきで考えるべきではない。
したがって、買い物はクルマを保有する理由にはならない。
通学は公共交通と自転車で賄わせるべきであり、送迎などとんでもない話である。
車での送り迎えなど子供を悪しく増長させるだけである。
クルマが無くても、速さや利便性を捨てれば十二分に対応は出来る。
居住地の選定に当たっては公共交通の充実度を重要視し、極度のクルマ社会になっているような地は選定しないものとする。
クルマの保有の有無(特にクルマを持っていないこと)で人を判断するなどもってのほかであり、そのような輩は厭離するべきである。

交通に関する筆者の現在の状況について

筆者は現在クルマもバイクも持っていないが、それで生活が回らないということはないし買い物は自転車で何とかなっている。雨は天気予報などで予めある程度想定できるので、それを見越して行動していれば雨の中買い物に行くことにはならない。
晴天限定ではあるが10キロ程度であれば自転車で足を伸ばせるので、急ぎでなければその程度の距離は自転車である。その点では比較的平坦なこの地の地形は有利ではある。隣のC県ではそうはいかない。
筆者はタクシーの福祉券が貰える資格者なので年に一冊(数十枚)の福祉券が貰え、この福祉券で初乗り運賃分が賄える。主に雨天時や重い荷物のあるときに福祉券でタクシーに乗っている。使用は1回1枚限りで、障害者割引を適用してなお初乗り運賃相当額を超える差額は現金で支払うことになる。

終わり

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主張と矛盾するような事件について

私は、かねてよりクルマが収奪装置であり、利権の塊であると指摘しており先にもこの趣旨で記事を上梓したところである。
しかし、2013年にこれに矛盾するような事態が起きている。
これについては、誤解のない様にそれが洗脳と誘導による事件であることを説明しておく必要があり記事を起こすこととした。

何故クルマを買わされる事態が惹起ったのか?

2013年に私は敵宗門の策略による交際類似事件に巻き込まれた。
この事件は人工透析への転落を目前にして惹き起こされたものであり、その一部として必要の無いクルマを買わせそれによって殊更にハタカサレるという事態が起きている。
2013年8月、最後のツーリングの帰途で私は異常なほどの疲労感に襲われた。
しかし、それは年齢的なものではなく腎臓疾患の悪化によるものだったが、敵はこれを「年齢的な衰えだ」と遠隔洗脳操作で刷り込んで思い込ませた。それはその後に予定していた交際類似事犯とハタカセ策動のためであった。

当時はまだ敵宗門に隷属させられていた次期であり、2011年に始まっていた真実の追究からも敵の策動による再洗脳によって遠ざけられていた時期でもあった。アベルフが政権を不当に簒奪して諦めムードが漂っていたことも悪い意味で影響していた。

翌13年9月、私は御講にタクシーで来ていて帰りも私は自分でタクシーを捕まえて帰るつもりでいた。
しかし、当時の役員で班長だった男が、私に車に乗って帰れとしつこかった。
私は一度断ったが、それでもなおこの男は乗って帰れとしつこく迫っていた。
その狙いこそ、後々問題になるこの寺の女工作員である柏原という女にあった。
つまり、思わせぶりによって誑かし行動を改変するとともに来るべき人工透析転落という事態に対してその重大性に気付かせず変な希望を持たせて騙くらかして脱退を妨害する意図が含まれていたのだ。つまり、敵宗門は私が人工透析に転落するということを予め察知して予定していたことになる。
案の定、その車の中で問題の女は思わせぶり行為を行い、これが後の洗脳誘導に利用されたというわけである。
女工作員による思わせぶりつまり交際類似行為は、決して個人的に行われたものではなく、これまでに宗門が惹き起こした数々の事件と同様寺ぐるみ、講ぐるみによるものであり宗門の指示に基づいている。
なお、当時まだバイクがあったにも拘らずタクシーで来させたのも敵一味の裏部隊による遠隔洗脳であり、バイクで来られては組織ぐるみの交際類似事犯を起こせないため洗脳装置で誘導した結果なのである。

ここでは、交際類似女のコトはひとまず置いておいて、クルマを買わせた謀略について説明する。

この時、私はバイクを手放そうとしていて、まずこれが間違いの元であった。
つまり、この間違いこそ先の思い込ませによる「年齢的な衰えだ」という誤認識によるものであり、またその原因をスリカエられていたことによるものである。
腎臓疾患の悪化は、予測しようとすれば予測出来ないことはなかったことである。
しかし、それは最後のツーリングの後で気分を悪くしそこで異常な血圧に気付いていたことによるもので、既に内容を敵の遠隔洗脳操作によって書き換えられていたので、そのことによって腎臓の悪化に気付くことができなかったのである。もっと正確に云えば、悪くなっていたことには気付けていても、人工透析への転落という最悪の事態を予測するという決定打を打てないようにされていたのだ。

その前、私は敵一味の策謀による遠隔洗脳操作で診察からドロップアウトさせられていた。このドロップアウト操作は腎臓の悪化が敵の一部である悪徳病院の医師によって出された薬に起因するものであることを隠蔽し、ドロップアウトのせいにして助けてやったんだろと恩を売って善と悪をすり替えるために行われたものである。
つまり、ドロップアウトしないでいて病状が悪化されると悪い薬を混ぜたんじゃないのかと疑われる可能性があるからで、犯罪行為の隠蔽である。
少し前置きが長くなったが、要するにバイクを売ったカネをクルマを買うことで使わせ更にこれをネタにハタカセて蓄えのない状態を強要したのがこの事件であり、先の交際類似事犯はそのきっかけを投じるために行われたものである。

事態の経過

きっかけを投じられたことと遠隔洗脳操作が発動されたことによって私が取るべき行動は捩じ曲げられ、すぐに必要性が無くなるクルマを買わされるような方向に敵は力ずくで引っ張っていったのである。
当時取るべき行動は何だったのか。
それは、身の丈に合わないバイクを、身の丈に合う小型のバイクに乗り換えて残りの資金を温存することであった。何故なら透析への転落が目前に迫っており、金銭的余裕が絶対に必要だったからである。
それを捩じ曲げるために敵が行ったことが、透析への転落が目前に迫っていることを知らせないようにすることと、女工作員による交際類似行為で未来に変な期待を持たせて誑かすことであったのだ。
云うまでもなく、クルマというのは持っているだけでハタカセのネタになり得るものである。而して敵が行ったのは、必要も無いクルマを買わせてさらに車をネタにいろいろと物を買わせて殊更にハタカセることであった。
その後すぐに人工透析に転落させられ、会社は退職となりクルマの必要性は失せたのであった。クルマの必要性などすぐに失せることは確定事項であったといえるのであるが、敵一味はそれを知りながら真実を知られないように隠蔽を図り、思わせぶり行為で誑かして判断を狂わせ行動を改変し、クルマが必要だと思わせて行動に走らせたのであった。
結局、このクルマはたったの半年しか持たずに売却させられることとなっており、25万で買ったクルマの売値は10万だった。たったこれだけで15万ものカネを不当にハタカサレて力を削がれているのだ。一家の中でも最も最大級の汚点である。

もしこれがクルマでなく小型のバイクであったらどうだったか。
クルマよりは格段に経済的であり、当時の厳しい状況でも何か制止に足る理由が無い限り乗り続けられたはずであり、2015年3月までは乗り続けられたはずであった。
25万で車を買わされるのであれば、後述の通り小型バイクとカメラ機材を同時に買えてしかもその後のハタカセを防ぐことが出来たはずである。

クルマを降ろされたあとはバイクを買うことも出来ず、しかも機材破壊工作によってカメラ機材を不当に失わされており、最低限の機材は持っていたがそれを使い続ける選択も敵は許さずに最後に残った10万円を敵は買い換える必要も無かったカメラなどに使わせるという暴挙に及んだのである。当時カメラ機材が無いわけではなく、しばらく待って別のカネでやるべきであった。それをやるのであればクルマを買わされるのを防いで小型バイクと同時にやれば両立できた。しかもその後敵一味は更なる機材破壊工作を続け、殊更にハタカサレて最後の10万円は藻屑と消えたのであった。
もっと云うならば、2013年に「無慈悲な揺さぶり事件」というものがあり、一度は問題の機材を買っているのである。しかし、これが敵一味の標的となり電磁波攻撃で不調を演出され、更に全く必要の無い機材を洗脳で買わせて翌日には売らせ、それだけで万を超える損害を出しているのだ。それでさえ、敵一味は洗脳で正当化を演出してまで犯行に及んでいる。
機材破壊策動とは、まさにハタカセのためにあるものであり、殊更にハタカセて力を削ぎ利権のために私を薄汚い辺境の地につなぎとめておくのが目的である。

これらは全て敵一味の悪辣な誘導と遠隔洗脳操作によってもたらされたものであって、決して私の選択ではない。殊更にハタカセて力を削ぎ移住を妨害するためであり、宗教からの離壇を妨害して縛りつけておくためだった。

その後

問題の女工作員はその後どうしたかといえば、人工透析に転落して直後のお会式のあとすぐに疎遠になり、このことを班長だった男に問い詰めても「そんなものある訳ない」などと年令などという理由にならないものを盾に女工作員をかばい一方的に私のせいにしたのだ。しかし問題の交際類似事犯を指示していたのは他ならぬこの伊藤という役員の男であり、宗門僧の指示で事件を指揮したのである。これは門外漢女を守った石之坊と全く同じであり、このことが宗門に対する不信感を募らせその後の聖域なき見直しそして宗門からの脱退につながったことは云うまでもない。

現在伊藤や柏原ら法悦工作員、法悦僧俗どもは全て本会の決議により「永代追放扱い」となり、厳しく放逐するとともに更なる報復措置も辞さない旨警告している。
特に重篤な惹起犯罪者については各個別に永代追放を宣告している。

この事件が決定打となった上、その後も敵一味による無慈悲な洗脳犯罪によるハタカセが続き今日に至るまで蓄えのない状態を強要されているのが現状である。

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自動車利権について~クルマから離れよ!

私はかねてからクルマ社会、自動車利権というものに疑問を抱いている。
以前にも旧ブログにおいて投稿「収奪装置」の中でその構造について指摘してきた。
そこで私は、「クルマは絶対必要」という刷り込みが何重にもされていることについて指摘をした。

単刀直入に云えば、クルマ利権とは支配者利権であり、「二重の社会主義」支配構造の構成支配者全てに利益のある利権なのである。つまり、二重の社会主義支配構造の頂点は偽天皇だから、クルマ社会は天皇命令ということになる。勿論公共交通の衰退も天皇命令であろう。
偽陰謀論者が云うような「アメリカ命令」では断じてない。あれは偽天皇利権に気付かせないために「天皇」を「アメリカ」にスリカエて云っているものだから騙されてはならない。
勿論二重の社会主義支配構造の全ての構成支配者に利益があるということは自動車メーカーもその中に含まれているし煽り雑誌である自動車誌の出版社も利権から利益を得ているということになる。
煽りの構造としては、利権に与る偽天皇や官僚そして自動車メーカー等の企業の命令でマスゴミや煽り雑誌などのメディアがスリコミや煽りを行い、「クルマは絶対に必要なもの」「クルマがないと女に相手にされない」という思い込みをさせていることになる。
なかんずく偽天皇と自動車メーカーがこの利権の中心であり莫大な利益を貪っているということになる。そのために「クルマは絶対必要」という刷り込みが何重にもされていることに気付いてクルマから離れてほしいわけである。

クルマとはそれ自体が利権の塊であり、クルマを持つ、クルマを使うごとに利権による収奪を受ける構造になっている。
ガソリンには多額の税が課せられていて、毎年自動車税で収奪され、2年ないし3年ごとに車検でもカネを収奪される。自宅を所有してなければ駐車場代でもカネを取られる。その負担は年々相対的に重くなっており、特に地方在住民にとって大きな負担となって重くのしかかっていて、地方衰退の大きな原因にまでなっている。
更に免許を取るのに教習所利権でもカネを収奪されており、教習所も天下り先の一つになっている。
車検も利権装置になっており、車検業者と重量税で役人の利権にもなっている。
しかもその間隔が不当に短いことが問題であり、更に13年を過ぎたクルマに不当に税金を加重して買い換えさせようと圧力をかけていることも大きな問題である。
さらにはここに来て軽自動車税の大幅増税で軽自動車やバイクに対する負担を増していることが大きな問題であるが、偽陰謀論者はこれらの利権や問題には一切触れていない。

クルマ利権は商店街潰し、個人商店潰しのNWOにも深い関わりがある。
モータリゼーションが支配層方針であり、クルマ社会化を推し進めているのがNWO勢力なのだから当然である。
つまりクルマでないと行けないようなところに大型のショッピングセンターを作って買い物客を奪うようなことがこれに該当する。
モータリゼーションは差別構造の助長にもつながる。
つまりクルマを持てる者と持てない者の格差を作り出し増長しているのである。
そこにブームを作り出し、「乗り遅れるな」とするバンドワゴン型情報操作が加わり、これに載せられて乗り遅れるまいとする愚民が背伸びしてしがみつこうとする。こうして格差と競争、そして持てない者に対する差別が助長されるのである。
先に云ったとおり、クルマを持つことは大きな経済的負担を意味する。このため車社会にしがみつこうとする愚民はそのために生活レベルを大きく落としていることになる。

「収奪装置」でも書いたように、車が小さくなったり、クルマを手放されたり、二輪に流れる事は収奪装置の主である偽天皇、企業支配層、給料泥棒官僚どもにとって都合が悪いのでメディアによって煽りが入って阻止しようとしているのである。

メディアスレーブはメディアの刷り込んだもの、流し込んだものを疑いもせずに受容しているが、そこから全てが狂っているという事を知ってほしいのである。
刷り込みのフィルターが取れて、自分の生活に何が必要か見つめ直せば本当に必要なのかが解るのだろう。そうすれば本当に必要なものなど幾らもないことが自ずとわかるはずである。わからないのは洗脳されているからであって、支配層の用意した借り物の価値観に毒されているからである。

クルマに限らず、世の中には本当には必要ないものがこれ見よがしにあふれている。つまり、それらは二重の社会主義支配構造による商業主義が民衆に押し付けたものであり、煽りや洗脳で不要なものを買わされているのである。
何が必要で何が不要なものか、それは自身の価値観で決めるべきことだ。 それが出来ないとしたら、それは支配層に用意された借り物の価値観に毒されているということだ。

中にはクルマでないと買い物にも行けない様な地域があるのも確かだが、そんなところには町としての魅力は皆無であるから行かないほうがいい。そのような場所を選んだのであればそれは選んだ自分の責任だろう。
とはいっても、それは余程の所であり通常はクルマがなくても自転車などで買い物は事足りるのが現実であり、スピードと便利さ、楽さを捨てれば普通にそれでやっていけるのである。いまや雨や雪は事前に知ることが出来るし前もってその前に買い物を済ませてしまえばいい訳だから、それらはクルマを必要にする理由にはならない。寒さは着込んで凌げばいい。
「車が必要」というスリコミから逃れられない大きな原因は、相対的価値観である。つまり人の生活を見て気にして比べてしまうところに原因があるのであって、人を見て比べるように仕向けられているのである。人を見て人と比べてしまうところから狂いが生じるのであって、それが背伸びをさせられる原因なのである。

クルマに乗ると人格が変わるという話を良く聞くし、実際にクルマに乗っている輩どもの身勝手さには何度も出くわしている。それに、クルマにはいくつもの電子機器があって強烈な電磁波を乗るたびに浴びることになるしクルマに乗ると眠たくなるようになっているから、居眠り事故が起きるのも当たり前なのである。
これら観点からも、クルマからは離れるべきなのである。

現実に私はいまクルマどころかバイクももてないような状況に追い込まれているので、買い物は自転車であるし費用節約の観点からおおむね10km圏は自転車で行っているくらいだ。経済的にはバイクくらい持てなくもない状況ではあるが、事情があって持てていないのである。尤もそれをネタに移住圧力を強めるのは定石なのであるが。「持たせないのなら他のところへ行くぞ」と。バイクがなくても不便を感じないようなところに移住するのが理想でもあるし。
地方都市が活気を取り戻したいのであれば、まずクルマ社会という「前提」を捨てて公共交通中心の街づくりに舵を切るべきであり、公共交通利用促進条例などを制定してクルマを捨てさせる政策を取るべきなのである。

今ある陰謀論者が自動運転をネタにした記事で信者を煽っているが、自動運転をネタにした記事は民衆をクルマ社会にしがみつかせるための煽り記事であって、クルマ社会の問題点には一切触れていない。
あの陰謀論者にクルマ社会への批判が書けるはずもない。何故ならアレはヒモ付きであって、むしろクルマ社会推進者の手先だからである。
私は、むしろ自動運転のゴリ押しを契機にクルマ離れが起こって公共交通への回帰が起こってほしいと思っている。
それに、現実問題として個人差はあるものの年老いた人にまで自動車を運転させるのはきわめて危険なことでもある。何しろクルマは走る凶器なのだから。その危険性だけは額面どおりに受け取るべきだろう。むしろ年老いた人にまで自動車を運転させなくても済むような助け合いの社会に舵を切ることが必要なのである。
ましてクルマを趣味にするなどとんでもない話である。

ともかく、まずは利便性を捨ててクルマを捨てるという行動を民衆が取ることが先決である。クルマを捨てて公共交通に回帰するべきである。民衆が動かなければ支配層も動かないから、まずは一人ひとりの実践行動が必要なのである。
そのためには「便利さ」と「スピード」を捨てる必要があるが、むしろ現代のクルマ生活で体をなまらせて病気になるよりは余程健康にはいいと思うが、いかがであろうか。
何よりも捨てるべきは借り物の価値観であって、「車は絶対に必要だ」という思い込みであり、「あの店でなければ」という固定観念ではないだろうか。

本記事や「収奪装置」の主張に矛盾するような事件が以前にあったので、これについては別途記事を起こして説明しておく。

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